ブリリアント・ワールド 9


「雪男、お帰り」

 週末、寮から修道院へ戻れば玄関前を掃除していた燐がそう声を掛けてくれる。ただいま、と笑い、雪男は両腕を伸ばした。びくり、と彼が微かに震えたが、それを無視してぎゅうと抱きしめる。以前の燐であれば自分から飛びついてきていたというのに、今はこうして雪男から手を伸ばさなければ触れることができない。それはおそらく、思い出したくもない男の言葉のせいだろう。
 燐を悪魔狩りの兵器として利用していた一派は、あの一件でほぼ壊滅したらしい。一応騎士團に属するものたちではあったが、命に背いたり応じなかったりと問題行動も多く、燐の件とは関係なく処罰も検討されていたようだ。

「むしろ感謝してもらいたいくらいですね」

 無事に処分いたしましたよ、と連れ去った男の行く末を報告に来た悪魔がそう笑っていた。正直なところ騎士團がどうであろうと、あの男がどうなろうと、雪男にはもうどうでもいいことだ。燐に危害が及びさえしなければそれでいい。
 その燐は、あの事件の後、心神喪失が更に酷くなるのでは、と危惧していたが、意外にも落ち着いた状態を保っている。悪魔と弟のことをほとんど口に出さない以外は、以前とほぼ変わりない日々を送っていた。

「え、これ燐が作ったの?」

 任務さえなければ金曜日の夜から戻ってこれたのだが、あいにくと学園内で仕事を頼まれ、修道院へ着いたのは土曜日の昼前。昼飯食った? と尋ねられ、正直に「朝から何も」と答える。

「あのっ、あの、さ、だったらさ!」
 ホットケーキ、食わねぇ?

 怖ず怖ずとそう提案され、彼が食べたいのかと思えば既に食堂のテーブルの上には、綺麗な焼き色のついたホットケーキが重なっていた。俺が作ったので良ければ、と続けられた言葉に驚きの声を上げてしまう。

「すごいね、僕、ここまで綺麗に作れないよ」

 たった今焼きあがったばかりなのか、まだ湯気の見えるケーキはふんわりと膨らんで香ばしい香りを放っている。食べていいの、と尋ねれば、嫌じゃなければ、と返ってきた。

「嫌なわけないじゃない」

 椅子に腰を下ろしていただきます、と両手を合わせる。熱で蕩けたバターを絡めて一口齧れば、ふわりとした甘さが口の中に広がった。急激に膨れ上がった空腹感に、そのままもう一口食べようとしてふと燐の視線に気が付く。じっと心配そうにこちらを見ている彼へ、「美味しいよ、すごく」と笑みを向けた。

「ッ、俺が、作ったの、でも、平気……?」

 一瞬意味が分からず、きょとんとしたまま素で「なんで?」と返してしまう。

「燐が作ってくれて嬉しいよ? 美味しいし。もう一枚食べてもいい?」

 一枚じゃ足りない、と食べきる前からお代わりを要求すれば、あ、うん、まだあるから、と皿をこちらへ押して、燐はほっとしたように頬を緩めた。むぐむぐと口を動かす雪男を見やった後、彼が振り返った先には様子を伺っていたのだろう、養父の姿がある。

「な、大丈夫だったろ?」

 そう言った獅郎へ燐は、うん、と笑って頷いた。
 ふたりのやり取りを見てようやく、雪男は兄が何を恐れていたのか、何を気にしていたのか、遅まきながら気が付く。
 それはやはり燐の方から抱きついてきてくれなくなったことと、根本的には同じ理由なのだろう。

『そんなきたねぇ手で何を触るっつーんだ?』

 あんな言葉など気にする必要ないのに、それこそ忘れてくれてもいいのに、と思いはするものの、それは燐自身が何とかしなければ問題で、雪男はこうしてホットケーキを食べることくらいしかできない。
 本当になんて無力なのだろう。
 つくづくそう思うが、今は落ち込んでいる時間も惜しい。何もできないと嘆く前にできる何かを探せ、とそう教えてくれたのは養父だ。

「……燐は食べたの?」
「え、あ、いや、俺は……」
「食べてないならほら、こっち、座って」
 一緒に食べよう。



 ショック療法といえば聞こえはいいが、単に諦めが生まれただけではないか、と言ったのは獅郎だ。確かにそれは雪男も感じるところで、燐はあの一件を経て諦めてしまったのだ。
 彼が今まで唯一支えにしてきた「弟に会う」ということを。

『もう、あえない。』

 そう、静かに響いた燐の声が耳の奥から離れない。
 あの男に言われた言葉が原因か、あるいは雪男が何の言葉も紡げなかったせいか。燐はもう弟には会えないのだということをおぼろげに理解してしまった。その証拠に、時々起っていた夢遊病的徘徊も今はぴったりと止んだという。
 ただその代わりに。
 もともと睡眠時間は少なく眠りは浅い方だったが、真夜中にふと意識が浮上することはさほどないことだろう。それでもここで眠っているときにはほぼ毎回、雪男は夜中に目を覚ました。何か物音がしたわけではない、声が聞こえたわけでもない。ただ不意に思うのだ、ああ燐が苦しんでいる、と。
 梯子を下りて二段ベッドの下段を覗き込めば、案の定きつく眉を寄せて歯を食いしばっている双子の兄の姿がある。うぅ、と苦しそうに呻く声が耳に届き、咄嗟に「燐」と声を掛けて肩を揺すった。深く眠っているのか、一度で彼が目覚めることはない。何度か繰り返したあと、ようやく燐の意識は現実へと戻ってくるのだ。
 ゆるり、と持ち上がった瞼の隙間には揺れる青い瞳。あくま、と小さく紡がれた言葉に雪男は首を振ってその頬を撫でた。

「悪魔はいないよ、どこにもいない」

 だから大丈夫、と燐を決して傷つけない言葉と掌でゆっくりと宥め続ける。そのことに安心を覚えてくれているのか、それとも他の感情故か、しばらくして彼はくしゃりと顔を歪めた。

「ゆき、お……」

 燐のかさついた唇が発する名前は彼の愛する弟、「ゆき」のものではない。そのことを喜べばいいのか、悲しめばいいのか、雪男には分からないままだ。
 複雑な感情を押し殺して「うん、いるよ、ここに」と燐の額へ唇を押し当てた。

 夢に見るのだそうだ。
 彼らに捕らわれ、悪魔を狩っていたときのことを。
 全身を血で濡らし、それでも悪魔を斬っていく光景が延々と続くのだ、と震える声で燐は言う。目の前が真っ赤に染まり、生臭い匂いが身体から離れない、拭っても拭っても両手は血で濡れ、気持ちが悪い、と燐は爪で皮膚が破れるほどにきつく両手を握りしめた。
 爪の食い込む手をそっと包み込み、大丈夫、と指にキスを落とす。
 大丈夫、もう何も怖いことはない、燐にひどいことをさせるものはいなくなった、燐は汚れていない、気持ち悪くもない。言葉だけでなく、雪男が心からそう思っていることを理解してもらうため、頬を撫で、キスを落とし、強く抱き締める。そうして全身を使って伝えていれば、燐の顔はますます歪んでしまった。

「ゆきお、雪男……っ」

 名を呼んで縋り付いてくる身体を抱きとめ、宥めるようにその背をそっと叩いた。
 こうして夢に魘される夜を、彼はあの日からほぼ毎晩繰り返している。それはもちろん雪男が寮へ戻っている平日も例外ではなく、そのときは獅郎が燐を悪夢から引きずり出してやっていた。始めの頃は獅郎の顔を見てほっとした顔はするものの、「雪男は?」と聞いてきていたそうだ。雪男じゃなくてごめんな、と養父が謝り、俺こそ起こしてごめん、と燐が謝る、そんなやりとりがほぼ毎晩。 

「また理事長に許可をもらってこっちに残ろうか……?」

 せめて燐がもう少し落ち着くまでそうした方がいいのではないだろうか。
 その提案は、しかし獅郎に却下されてしまった。それは学業に支障が出るから、という理由などではもちろんなく。

「今ここでお前が側にいすぎると、今度はお前に寄りかかるようになるだろう。辛いのは分かる、きついとも思う、ただ、あいつはちゃんと自分の足で立って、自分の目で周りを見なきゃなんねぇ。雪男だって、ずっと燐の面倒見てるわけにはいかねぇんだから」

 分かるよな、と相槌を求められ、雪男は素直に頷きを返した。
 養父の言葉は確かにその通りだと思う。そうした方が良い、そうするべきだとも思う。けれど今雪男が平日寮に戻っているのは、燐を想ってのことではない。
 獅郎の言葉を耳にし、いいのに、と思ってしまった自分に気が付いたからだ。
 寄りかかってくれてもいいのに、と。
 むしろそうなってくれたらいいのに、と。
 ごく自然にそう思ってしまい、自分のことながらぞっとした。
 自分は一体燐のことをどう思っているのだろうか、忘れてしまっていた双子の兄と理解しているのだろうか。
 分からなくなってきた。

 今の燐ならば「ゆき」と雪男が同一人物であることを理解してくれるかもしれない。しかしそれを告げればおそらく、獅郎が恐れる「ゆき」から雪男への依存シフトがなされるだろう。だからもう少し兄弟であることを伏せておきたいがいいか、と問われ、これにも雪男は素直に頷いて「いいよ」と答えた。

「そうか、……悪いな」

 そう謝った後、獅郎は「お前は大丈夫か?」と更に問いを重ねてくる。この状況は燐だけでなく雪男だってまた辛い立場だ。そんな雪男を獅郎は息子として愛し、心配してくれている。それが分かるからこそ、何の蟠りを抱くことなく笑うことができるのだ。

「大丈夫だよ。父さんも……兄さんも、いるから」

 兄さん、と燐を呼びたい、そう思っている自分がいるのは確かだったが、彼と兄弟という間柄に戻りたいのかどうか、もはや自分でも判断がつかない。
 ただ唯一、これだけははっきりと分かる。
 腕の中で震え縋り付いてくる彼を雪男は決して突き放せない。
 そしてほかの誰かにこの役をくれてやるつもりも、毛頭ないのだ、と。

「……ッ、ご、め……ごめ、ん……っ」

 迷惑をかけてごめんなさい、と必要のない謝罪を口にする、誰よりも優しい悪魔は、ようやく全身を雪男に預けてくれるようになった。それは彼の命そのものでひどく重たい。けれど支えたいと思う、いや、雪男が支えなければならないものなのだ。

 何せ燐は雪男の双子の兄、なのだから。




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2012.06.05