ハリネズミの抱擁3 なんとなく分かってはいた、のだ。 肉体的に何の異常もない状態で、それでも味覚だけが失われている。魔障でもないとなれば、あと雪男に思い当る可能性は一つだけ。つまり、精神的な問題だろう、と。 人間の身体は奇跡としか思えないほど、緻密に、精工に作り上げられている。丈夫なようでいて、実はかなり繊細だ。ほんの僅かなずれでも積み重ねることにより、無視できないほどの大きな齟齬を来たすようになる。ストレスによる頭痛や腹痛などよく聞く話で、雪男の場合は味覚へ影響が出たというだけのこと。そこまで精神的負担を覚えていたつもりはないのだが、無自覚だからこそ余計に性質が悪いのかもしれない。 『お兄さんの料理限定、となれば、やはり、そのお兄さんに原因があるのでは?』 メフィストの言葉が頭の中に蘇る。 そんなことはない、と声を大にして言いたかったが、説得力がまるでないだろうと雪男自身も分かっていた。 けれどストレスの原因となっているらしい兄が悪いわけでもないのだろう、とそうも思う。雪男が勝手に兄のことで思い悩み、勝手にストレスを覚えているだけのこと。それを乗り越えるだけの強さが雪男にまだ備わっていなかっただけのこと。 「…………駄目だなぁ、僕は……」 幼い頃、泣きながら燐の後ろにばかり隠れていた自分。それではいけない、そんなことでは大好きな兄を守れない。彼を守れるだけの強さが欲しくて、だから懸命に足掻いてきたつもりだった。 病弱ではない身体と、それなりの技術、知識は手に入れた。完全に燐を守れるほど、とはいかないが、それでも昔の、ただ守られているだけの自分ではないと、そう思っていた。けれど実際には、守るどころか雪男自身が燐を深く傷つけてしまっている始末。 「…………やだなぁ、もう」 なきそう、とひとり呟く声は誰の耳にも届かない。泣くな雪男、にーちゃんがついてっから、と乱暴に頭を撫でてくれたひとの耳には、届かない。 燐は優しいから、とても真っ直ぐで柔らかなひとだから、己が傷つくことよりもほかの誰かが傷つくことをひどく厭う。自分のことはいいから、と必ず彼自身を二の次にするのだ。けれどだからといって燐が傷つかないというわけでは決してない。優しいからこそ、彼の心はとても繊細なのだと思う。 味の分からない人間へ料理を作り続けることが、どれほどの苦痛であるのか。考えれば分かったことだろう。どうして自分がこんな目に、という気持ちと、何の味も分からない燐への申し訳なさばかりに気が向いて、兄の心情を慮ることを怠っていた。 兄弟という気兼ねなさ、家族だからという甘え。兄さんなら許してくれる、大丈夫だろう、とどこかそんな風に思っていたのかもしれない。 ただ、兄を守りたい、守りたかった、それだけなのだ。 同じ部屋で生活をしていなくとも、近くに体温を感じずともそれはできるだろう。燐が悪魔の力に目覚める前は、離れていても彼を守るとそう決めていたはずだ。 悪魔なのに祓魔師を目指すという、茨の道を突き進んでいる兄が心配で仕方がないが、今はきっと側にいない方が良い。その方がお互いにとっても良いだろう。 別々の部屋から学校へ向かい、塾へ出て、そうして別々の部屋へ帰る。表面的には何事もなかったかのように振舞えているはずだ。居眠りばかりする兄の頭へ教本を振りおろし、「何すんだホクロメガネ!」と怒鳴る彼の頭をもう一度殴る。出来の悪い生徒に手を焼く講師の姿を作れているつもりだった。 けれどやはりどこか、空々しさはあったのだろう。 祓魔屋で備品を買い足していたときのこと、顔を出したしえみにおずおずと問われた。最近何かあったか、と。 「雪ちゃんも、燐も、元気、ないなって……」 余計なことだったらごめんね、と控えめな少女が眉を下げて言った。咄嗟に何もないですよ、と答えられなかったのは、誰かに話を聞いてもらいたかったからなのかもしれない。 「喧嘩を、してまして……」 恥かしい話ですが、と苦笑した雪男を見やり、「ちょっと話していきなさいな」と女将がお茶を入れてくれた。大人がいない方が話しやすいだろ、と席まで外してくれ、腰を下ろした雪男は湯気の立つ湯呑を見下ろす。 「僕が、悪いんです。兄を、傷つけてしまって……」 それはすべて雪男の弱さ故のこと。もっと強くあらねば、また同じように燐を傷つけてしまうだろう。 「僕も兄くらい強くならないと」 今燐と顔を合わせれば、求める自分へなかなか近づけない歯痒さを彼にぶつけてしまいそうで。何より普段散々燐に偉そうなことを言っておいてこの体たらく、合わせる顔がない。 兄はあの性格ですから、とぽつり語る雪男の言葉に、しえみは静かにうん、と頷いた。 「僕の前でも、無理に笑おうとするんです」 きついだろうに、辛いだろうに、それすらも隠して大丈夫だと笑ってみせる。それがすごく、辛い。 そんな風に普段見せることのない弱さを口にすれば、「そうだよね」としえみ言葉を紡いだ。 「大切なひとが辛いのはやっぱり嫌だよね」 大切だと思うからこそ、幸せであって欲しいと思う、笑顔でいてもらいたいと願う。だからこそ今は少し離れているのだ。これ以上燐を傷つけないためにも、せめてもう少し雪男が強くならなければならない。 ふぅ、と息を吹きかけ冷ましたお茶を口に含む。じんわりと広がる茶葉の甘味、渋さ。折角入れてくれたのに申し訳ないが、不味いと思わない代わりに美味いとも思えなかった。 兄さんの入れてくれたお茶が飲みたい、と味も分からないのにそんなことを思っていた雪男の耳に、「でもね、雪ちゃん」としえみがおずおずと口を開く。 「それって、雪ちゃんだけじゃ、ないよね。燐だってね?」 同じこと、考えてるんじゃないかな。 大切なひとを傷つけたくない、無理に笑ってもらいたくない、辛いなら辛い、きついならきついと言ってもらいたい。 何でもないような顔をしないでもらいたい。 「ねぇ雪ちゃん、ちゃんと燐とお話、してる……?」 家族だからといって、兄弟だからといって、双子だからといって、何も言わずとも良好な関係が築けるわけではないのだ。 心配をかけたくない、という思いはあった。自分の弱さを知らしめるようで、情けないという思いもあった。燐の料理の味だけが分からない、そこから勝手に結論を導き出されることが怖かった。 何でもないような顔をして、本当はひどく傷ついているはずなのに、諦めたような顔で笑ってひっそりと、姿を消しそうで怖かった。 燐がいなくなることが、怖かった。 いなくなった結果、ひとりになってしまうという事実を認めることが、怖かった。 幼い頃からずっと燐だけを見て生きてきた。何も知らない彼を守るのだという下らない優越感を抱きながら、それだけを目標に進んできた。その他のものを進んで切り捨てたのは雪男であり、今さらそれについて彼を責めるつもりは毛頭ない。そもそもそれは雪男が勝手に行ったことだ、燐には関係のない話。 そんな自分から燐を取り上げられてしまえばどうなるか。 考えるまでもない、何も残らないのだ。 どこまでも空っぽで、空虚で、意味のない抜け殻だけがそこに残る。 だから怖かった。 燐がいなくなることが、怖かった。 その可能性に怯え続けること、それがおそらく、一番の原因ではないか、とそう思う。 「本当に、嫌になる」 祓魔屋からの帰り道、ぽつり呟き夜空を見上げる。広がる星空、同じ空の下に兄がきちんと生きてくれてさえいれば良かった、そう思えていた昔の自分はどこに行ってしまったのだろう。 もちろん無事に生きていてほしいとそう思っている。けれどできれば、笑っていてもらいたい、側にいてほしい、そんな願いを抱くようになってしまっていた。 自分はいつからこんなにも、欲張りになってしまったのだろう。 ←2へ・4へ→ ↑トップへ 2012.06.05
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