ハリネズミの抱擁4


Side-R


 馬鹿だ馬鹿だと散々罵られてきているし、自分でもそのことは否定しない。考えが足りない、目先のことしか見えていない、自分のことしか考えることができない。卑屈な感情もそこにはあったのかもしれない。いつの間にか兄である自分を追い越し、遠い先を行くようになってしまった弟の背中。悔しい、追いつきたい、置いて行かれたくない、それらに加え、どうせ自分などいなくても、という想い。
 雪男なら大丈夫だ、頭の悪い兄などおらずとも、ひとりで上手くやっていける。
 そう思っていた。
 そんな感情さえなければ、もっと早くに弟の不調に気づけたかもしれないのに。
 始めはちょっとした違和感だった。気のせいだろうと思い込もうとして、それでも気になって、尋ねたところできっと雪男に上手く逃げられてしまうだろうと、そう分かっていた。だから少しだけ罠を張ってみた。
 わざと味付けを間違えたほうれん草のお浸しと味噌汁。燐からすれば、ほうれん草の味しかしないお浸しと、辛すぎる味噌汁を口にし、双子の弟は笑顔でのたまった、「美味しいよ」と。
 嘘つき、と零れる言葉が止められなかった。
 果たして燐に責める資格があるのだろうか。

 雪男は嘘をつくことが格段に上手くなった。燐が嘘をつけない性格だということもあるが、それにしても弟は平気で、さらりと、笑顔で、嘘をつく。
 確かに燐は難しいことを考えることができず、物覚えも悪い。頭に血が上ればまともにひとの話を聞くことさえできず、唯一誇れることといえば料理くらいなもので、そんな燐に雪男が抱えているものを話したところで、何の力にもなってやれないことくらいは分かっている。話しても仕方がない、と弟が判断するのも当然かもしれない。もしかすると雪男なりに燐を気遣った上で、心配させまいとした結果の嘘なのかもしれない、と考えなくもないが、さすがにそれは自分に都合の良すぎる想像だろう。
 話そうとしない雪男を責めるより、話してもらえない自分の情けなさを反省し、少しでも頼りにしてもらえる存在になれるよう努力するべきなのかもしれない。
 味覚障害、というのだそうだ。具体的な症状はいくつかあるようだが、雪男はまったく味を感じなくなってしまっているらしい。何を口にしても無味だなんて、言葉そのままの意味で味気なさすぎる。それでも空腹は感じるようで、何の味もしないものを食べ続けることはかなりのストレスとなっていただろう。雪男自身は何でもないような顔をしているが、日を重ねるごとにどことなく疲れ、やつれていっているように見えた。
 限界だ、と思った。
 雪男にとっても、燐にとっても、これ以上この症状を放置していてはいけない、と。
 燐の言葉に弟が従ってくれるとは思えない、だったら力尽くでも、そう思って、いた。

「…………俺の作ったもんだけ、とか、」
 なんだよ、それ……。

 かっと頭に血が上り感情のまま怒鳴れば、雪男もまた叫ぶように言葉を返す、「なりたくてなっているわけじゃない」と。
 それも当たり前の話だ。こんな器用な状況に望んで陥るものはいないだろう。もしかして彼得意の嘘かとも思ったが、そのことを口にした後、雪男はしまった、というような顔をしていた。渋い表情、言うつもりはなかったのだ、というような。だからこそ弟の言葉が事実であると燐は知った。
 これ以上雪男の顔を見ていることもできず、食堂を飛び出た足で寮さえも後にする。行く宛はないが、とにかくひとりになりたかった。弟と同じ空間にいたくなかった、いることができなくなった、いてはいけないような気がした。
 黒々とそびえ立つ旧男子寮の影を呆然と見やり、燐はぐし、と鼻を啜る。
 苦労性でしっかり者で頭の回転の速い自慢の弟は、先日より味覚に異常を来たしている。それもどうやら、燐が作ったものの味だけが分からないらしい。

「俺……」

 どうしたらいいのかが分からない、何をしてやったらいいのだろうか、何ができるのだろうか。何をするべきなのだろうか。
 分かっている、一番辛いのはそんな症状に見舞われている雪男自身なのだ、けれど今雪男の顔を見れば弟を責めてしまいそうで。
 少し頭を冷やしてから戻った方がいいかもしれない。
 そう思っていたところで『りん!』と足元から声が聞こえた。

「クロ……」
『りん、やっとみつけた!』

 とおくにいきすぎだぞ、と猫又に怒られごめん、と返す。どうやら燐を追いかけてきてくれたらしい。飛びついてくるクロを抱え、「ごめんな」ともう一度謝ってその小さな顔に頬を摺り寄せた。

『ゆきおに、にいさんをよろしく、っていわれた』
 りん、だいじょうぶか?

 そう言ってぺろり、とざらついた舌に頬を舐められ、じんわりと涙が浮かぶ。弟はあんな口論の後でさえ燐を気遣ってみせるのだ。くろぉ、と情けない声を上げて小さな身体を抱きしめた。

「俺、マジで、だめだ……」

 雪男のために、弟のために何をしてやればいいのかまったく分からない。分からないまま逃げ出し、ぐすぐすと泣いている。
 なんて情けない兄なのだろう。
 本当は今すぐにでも戻って、雪男を病院なりなんなり、せめてメフィストの元にでも連れて行くべきだろう。けれど燐の足はどうあっても寮の方へ向きそうもない。悲しい、悔しい、腹立たしい、かわいそうだ、申し訳ない、いろいろな感情がごちゃ混ぜになっており、こんな混乱した状態で会えるはずもない、そう思っていたところでポケットの中で振動する機械に気が付いた。
 電話か、と慌てて取り出してみるが、画面には『新着メール一通』の文字。

「っ、ゆき……ッ」

 涙で滲む携帯画面に綴られた言葉、「ごめん」という謝罪は一体何に対するものなのか。
 『いくな』というメールに返信ももらえず、息を切らせて戻った寮の部屋からは雪男の姿は消えていた。

「雪男……」

 電源の落ちたパソコン、綺麗に積み上げられた本、座るもののいない椅子。雪男が帰宅するまでは当たり前のように広がっている光景のはずなのに、出て行ったのだ、という事実がそれらをひどく寒々しいものへと変化させる。

『ちなみに、騎士團で検査は受けた。身体はどこも異常ないから心配しないで』
「…………するに決まってんだろ、ばかやろう……」

 そんな罵りの言葉に返ってくる言葉はない。
 この空虚な空間はきっと、罰みたいなものなのだろう。
 苦しんでいる弟へ、何もしてやることのできない無力な兄に対する罰。
 そう思った。


**  **


 すべてのものの味が分からなくなるのであれば、話は早かったのかもしれない。雪男は悪魔の仕業ではない、と言い切っていた。弟が何らかの魔障に侵されでもしていれば、おそらく他の講師陣が黙ってはいないだろう。
 悪魔である燐が作るものを食べたから、ということも少しだけ考えたが、それも同じ理由で違うと言える。しかし身体的にもまた異常はないらしく、それならば一体何が原因だというのだろうか。
 普段は決して足を運ばない図書室へ向かい、眼鏡を掛けた司書の助けを借りて味覚障害に関する本を探し出した。借りてもきっと部屋では読めないだろうから、と図書室でそれに目を通し、栄養不足でそういった症状が起こることを知った。
 それほど真面目に考えて料理をしていたわけではないが、ある程度栄養バランスには気を遣っていたつもりだ。肉ばかり続かないように、野菜不足にならないように、必要な栄養素が無理なく万遍なく取れるように。
 もともと雪男は食に対する興味が薄いらしく、あれが食べたいこれが食べたいと言うことは少ない。暴飲暴食をするタイプでもなく、「三食兄さんの作ったもの食べてれば問題ないでしょ」と当たり前のことのように口にして、燐を喜ばせてくれるような人間なのだ。
 そして実際に寮へ越してきてから雪男が口にするものは大抵、燐が作ったものだった。自分の腕を過信するわけではないが、それでも正直栄養素不足でそういった症状が現れているとは考えにくい。そもそもそれが原因ならば、すべてのものの味が分からなくなるのではないだろうか。
 けれど、雪男は燐が作ったものだけ味が分からないと言う。
 たとえば甘味や苦味だけを感じない症状というものならあるらしいが、特定の人物が手にかけたものだけ、という症状はあまりないようだ。少なくとも斜め読みしたその本の中には症例として挙げられてはいなかった。どのように捕えれば良いのか、どこが悪いと考えれば良いのか。
 雪男が調べても分からなかったといったことが燐に分かるわけもないのだが、それでも何もしないままではいられない。他にも味覚障害について説明してあるものはないだろうか、と席を立ちあがったところで、「あんた、本なんて読むんだ」と耳に届く声。

「……マロ眉」
「その呼び方止めて」

 振り返れば相変わらず不機嫌そうな顔をした、祓魔塾でのクラスメイトがそこにいる。彼女の手にも数冊の本が抱え込まれており、授業で必要なのか、個人的な趣味なのか。ちょっと知りたいことがあって、と答えればふぅん、と興味のなさそうな相槌が返ってきた。

「……奥村先生には聞けないことなのね」

 燐の双子の弟が祓魔師としても、そして高校生としても優秀な頭脳を持っていることを彼女も知っている。気になることがあればその弟に聞けばよいのに、と思ったのだろう。それをしていないということはつまり、とその先を読んでくれる、彼女もまたかなり頭の回転が速い人物だ。
 ん、と眉を下げて頷いた後、「あの、さ」と言葉を続けたのは、おそらく出雲がこちらにまったく興味を持っていないからだ。図書室であることを考えて声量を落とし、ぼそぼそと問うてみる、味覚障害を知っているか、と。

「……聞いたことある、程度ね」

 誰がそういう状態なのかは伏せたまま、ある特定の人物が作る料理にだけまともに味覚が機能しない、そういうことはあり得るのだろうか、と。
 語彙が少なく、説明能力も乏しい燐の言葉は分かりづらかったであろう。それでもきちんと耳を傾けて話を聞いてくれた彼女は、少しだけ考えて「ちょっとよく分からないわ」とそう口にする。

「あんたの話が、じゃなくてね」

 指を立てた出雲が言うには、その食べた人物は一体どのように誰が作ったのかを判断しているのだろうか、と。

「だって常に見てるわけじゃないでしょ。たとえば、よ? その人に、誰が作ったのかを伏せた料理を食べさせたらどうなるの? 味で分かるもの? だったら味、分かるんじゃない」

 確かに彼女の言うとおりだ。
 実際には結果が怖くて試せないが、燐が作ったと伏せて雪男に弁当を渡した場合、あの弟はどんな反応を示すだろうか。

「だから、もし仮に本当にそういう症状があるなら、原因は心因性でしょ」
「しんいんせい……」
「心に因る性質のもの」

 心因性、と漢字を指で辿りながら出雲は説明してくれた。ああその単語は先ほどの本でも見た覚えがある。

「要するに、ストレス」

 その人物が作っているのだ、と認識することにより、味覚を排除してしまう。身体が機械的に反応するわけではなく、間に本人の意識(たとえそれが無意識であったとしても)が入り込むのだ。
 ストレス、と出雲の言葉を復唱して俯いた燐へ、「たとえそうであったとしても、」と彼女は続けた。

「ストレスって簡単にどうにかなるものじゃないわ」

 それであんたまでストレス感じてちゃ本末転倒よ、とどうやら励ましてくれているらしい。さんきゅ、と礼を述べ、分かりづらくはあるが優しい少女と別れて図書室を後にする。
 なんとなく。
 そんな気はしていた、のだ。
 魔障でもない、肉体的に疾患があるわけでもない。
 そして燐の料理だけ味が分からないという限定性。
 雪男の味覚障害は、心的原因ではないのだろうか、と。
 そして弟の心へ最も負担をかけているのは他でもない、燐自身だろう、と。
 だからこそ、燐が作ったものにだけ拒否を示す。
 それはつまり。

「……俺が悪ぃんじゃねぇか」




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2012.06.05