ハリネズミの抱擁5


 もしかしなくても、雪男はもう燐と同じ部屋で生活はしたくないのかもしれない。
 そう思えば、日に一度は送っていた「帰ってこい」というメールを打つことができなくなった。担当講師が呼んでいない限りは案内できないと断られながらも、塾のある日は毎回他の講師たちに悪魔薬学の講師室へ連れて行って欲しいと頼んでいたが、それもできなくなった。顔を見ることも嫌がられるのではと思えば、まともに雪男の方を見ることもできなくなった。
 嫌われるのは慣れている、以前弟にそう言ったことがある。基本的に誰かに好かれた記憶というものがほとんどない。だから誰からも好かれずに生きることなどどうということもない、そう思っていた。
 けれどそれは、絶対的に自分の側にいてくれるだろう、味方になってくれるだろう片割れがあると信じていたから、その基盤があったからに過ぎなかったようだ。
 弟を日々小さなことで怒らせているという自覚はある、手を煩わせているとも思う。けれどおそらく課題をやらないだとか朝起きないだとか、そんな日常的なレベルでの出来事が原因ではないだろう。
 悪魔の弟、とそう苛められ、泣いていた頃から雪男は祓魔の道へ足を踏み入れていた。その理由が、そもそも雪男へ魔障を施した張本人である、燐を守るためだというのだから。
 燐は輪に入ることはできなかったが、放課後、校庭で遊んでいた級友たちを見て雪男は何を思っていただろう。部活動に励む級友たちを見て何を考えただろう。同年代のものたちがバットやグローブ、ラケットや絵筆、あるいはゲームのコントローラを手にしている間、殺すための冷たい道具を握り、雪男はどんな気分だったのだろう。
 優しかった弟の手が硬いマメだらけのものになってしまったのは、燐という存在があるせいだ。そこに至るまでの道のりがどれだけのものだったのか、想像することしかできない。けれど決して平坦ではなかっただろう。
 本来なら広がっていたはずの普通、代わりに広げられた悪夢と変わらぬ世界。
 何もかも燐がいるせいだ。
 自分がすべて悪いのだという悲劇の主人公ぶるつもりはないが、そう思わざるを得ない。
 いろいろな小言を口にしながら、それでも雪男は燐に手を伸ばしてくれていた。燐が己自身何者か知らぬまま喧嘩に明け暮れていたときも、双子の兄を心配し手当てのために腕を取ってくれていた。
 その時には既に、彼は燐が悪魔の血を引いていることを、炎を身体に宿していることを知っていたはずなのに。

『心配してるんだよ』

 そういった言葉の数々までもが嘘だとは思いたくない。けれど、雪男は真面目で優しいから、ただ出来の悪い兄を、悪魔である兄を見捨てきれないだけだったのかもしれない。
 悪魔の力を引いている、そんな己を不幸だと思わなかったわけではない。けれど後ろ向きな考えは好きではなく、悩むくらいなら前を見た方がいいと思っていた。いや今もそう思っている。しかしだからといって、ただひたすら足を踏み出せば良いというものでもなかったのだろう。
 魔神の炎を持つということがどれほど大きなことなのか、自分が騎士團の中でどのような位置に置かれているのか。燐はおそらくまともに理解していない。多分に面白くないであろう現実から目を逸らせ、耳を塞いで進む姿は、さぞや危なげに映ったであろう。どうにかして燐の生きる道を支えようとしてくれていた雪男には、苛立たしいことも多かったであろう。
 向けられる小言が煩わしくて、はいはいと適当に聞き流し続けてきていた。雪男ほど、真摯に燐のことを考えてくれる存在はいないというのに。
 焦っていた、自分のためにも、そしてこんな燐を育ててくれた養父のためにも、何より血の繋がった弟という立場にある雪男のためにも、周りに認めさせてやるとがむしゃらになっていた。そうして突き進んだ結果、弟を傷つけていては意味がない。


「燐!」

 塾の授業を終え、弟の戻ってこない部屋へ戻る現実に胃を痛ませながら廊下を歩いていたところで、不意に声を掛けられた。振り返れば着物をまとった控えめな少女が、沈んだ表情でそこにいる。

「しえみ」

 どうかしたか、とへらり笑みを浮かべて見せれば、少女はますます辛そうに眉を顰めた。ぱたぱたと走り寄ってきた彼女はおもむろに細い腕を伸ばし、その柔らかな手で燐の手を握る。

「っ、し、しえみっ!?」

 突然のことにどんな反応を示せばいいのか分からなくなる。かぁ、と頬を赤らめて名を呼べば、「我慢、しないで」とそう言われた。

「私ね、思うの。我慢って、偉いことでもすごいことでもなんでもないんじゃないかって」

 一体彼女がどうしてそんなことを言い出したのか、上手く理解できず首を傾げながら、「それは、あれだろ、」と燐は力なく言葉を返す。

「俺より、むしろ、雪男に、」
「言ったよ、もう」

 どうやら彼女は様子のおかしい兄弟が気になり、祓魔屋にやってきた弟を捕まえて問うたのだそうだ。そのとき彼は喧嘩をしている、と説明したらしい。
 授業中、雪男ができるだけいつもと同じような態度を取ろうと努めていることは何となく分かった。だから燐も同じような反応をしておこうと、頑張っていたつもりだったのだが、普段から雪男に憧れ、視線で追いかけている少女には兄弟仲が捩じれてしまっていたことがばれていたようだ。
 彼女は、ぎくしゃくした雰囲気を放つ兄弟を前に心を痛めてくれている。

「雪ちゃん言ってた、自分が悪いんだって。燐みたいに強くなりたいって」

 そうすればきっと燐を傷つけることもないのだろう、と。
 その言葉に燐はふるり、と首を横に振る。
 雪男が悪いわけでも弱いわけでもない。そして目標とされるほど燐が強いわけでもないのだ。もし弟の目に強く映っていたのだとすれば、それは八割がそうである振りであっただろう。情けない姿を見せたくない、心配をかけたくない、そんな想いからの強がりに過ぎない。

「私は、どうしてふたりが喧嘩してるのか、全然知らないよ。でもね、」
 雪ちゃんが燐をすごく大事に想ってるってことは知ってるの。

 雪男の話を聞いたとき、その気持ちがはっきりと伝わってきたのだ、と少女はそう言った。

「ふたりとも、今はちょっとすれ違ってるだけ」

 ね、そうだよね、と燐の腕を握ってくるその手はとても小さく、少女の手だ、とそう思った。庭いじりが好きな彼女らしく、少し荒れた、それでも温かな手。
 じんわりと涙が浮かびそうになったのは、彼女の言葉が嬉しかったからではない。
 それを信じることのできない自分に気づき、愕然としたからだ。
 だってもう、雪男は燐の作った食事を口にしてくれない。寮に戻っても来ない。すれ違いといえばそうなのだろうが、これは果たして再び交わることができるようなものなのだろうか。
 雪男が悪いわけではない、弟は弟なりに精いっぱい頑張っていた、頑張りすぎていた。
 だからこそ、彼の心は悲鳴を上げてしまったのだ。
 悪いのは、そうなるまで追い詰めた存在だとしか思えなかった。

 気づくことのできる切っ掛けはおそらくいたるところに転がっていたはずなのだ。
 味覚障害のことに限らず、それよりも前、養父と雪男に守られているのだということを燐が知らぬまま修道院にいた頃から。
 双子の弟が一般的な生活から徐々に離れた道を進みつつあることに、おそらく気づくことのできる機会はいくつもあったはず、なのだ。
 たとえば転んだにしては大きな膝の怪我だとか、徐々に厚くなっていた掌だとか、潰れたマメだとか、塾に行っているわけでもないのに遅い帰宅だとか、どこか疲れたような顔だとか。
 気になっていなかったわけではないが、燐は燐で自分のことを考えるだけで精いっぱいになっていた。
 世の中知らなかった、では済まされないことがたくさんある。知らされなかった、知る方法がなかったというのは甘えでしかない。知ろうとしなかった、そのこと自体が罪だ。転がっていた切っ掛けから目を逸らしていただけ。
 その結果引き起こされたこと。

 燐自身の変化はこの際どうでもいい、それは己自身の問題でどうとでもなる。
 そんなことはどうでもよくて。
 燐のせいで悪魔を目にするようになり、祓魔の道へ足を踏み入れ、そうして多大なストレスを受けた結果、身体に異常を来たすようになってしまった。雪男は自分が弱いから、としえみに話していたようだったが、そんなはずはないと思う。
 雪男は強い、確かに昔は泣き虫でいつも燐の後ろに隠れてばかりいたけれど、そのときだって決して燐を置いて逃げたりはしなかった、泣きながらもずっと側にいてくれた、そんな強さを持った自慢の弟なのだ。もし雪男と燐の立場が逆であったなら、と考えた時、弟のように振舞える自信など、燐には欠片もなかった。
 ひとはこの世に生まれたからには誰しも生きる権利がある、生きる意味がある。
 そう謳うものは数多くあり、燐も基本的にはそれに賛同する。
 ただしそれは「人間」であることが絶対条件だ。
 悪魔のようだ、と小さな頃から散々言われ続けてきた。
 どうしてこんな子がいるの、いなくなればいいのに、早く追い出して。
 そこにあるだけで、害悪。
 同じ母を持ち、同じように生まれ出たはずの双子の弟。
 弟はこのような血から逃れることができている、そのことだけが燐にとっては救いだったのだけれど。
 いるだけで最愛の弟から色々なものを奪ってしまった。
 いやおそらく、今現在も奪い続けているのだ。

 講師の仕事に祓魔師としての任務、燐とは比べ物にならないほど忙しいらしい雪男は、帰宅が遅いことも頻繁だったが、待っていれば必ず帰ってきた。弟の帰る場所はこの古びた寮の一室なのだと、そう信じていられた。
 今はどれだけ待ったところで、雪男は戻ってこない。
 味が分からない、それでも燐が作ったものがいい。
 雪男がそう言ってくれたから、だから作っていた。
 確かに寂しさはあった、けれど美味しいと言ってもらえなくても、ただ雪男が食べてくれる、それだけで燐は満足だったのだ。
 そんな彼が味を失ったその原因は燐にある。
 燐が存在すること、それがおそらく雪男にとっては一番の負担となっている。
 言わば諸悪の根源であるようなものが、どうして弟の帰りを望むことができようか。味覚を失った弟へそれでも食べてもらいたい、と食事を作ることができようか。

「…………なん、で……」

 どうして雪男が食べないものを自分は作っているのだろう。
 どうして弟が美味しく思わないようなものを自分は食べているのだろう。

 そう思ったときには、燐はたった今口にした夕食をすべて戻してしまっていた。





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2012.06.05