ハロー・グッバイ(10)


 結局燐が意識を取り戻したのは翌日の昼のことだった。
 午前八時をすぎたあたりでぱたぱたと小さな足音が廊下に響き、閉じていた目を開ければこちらに向かって走ってくるしえみの姿がある。

「雪ちゃん! 燐は!?」

 頬を赤くして尋ねてくる彼女へ視線で彼がどこにいるか伝える。だから無理しちゃだめだよって言ってたのに、と呟く彼女は燐が倒れる原因を何か知っていたのかもしれない。

「僕がついていながら、申し訳ありません」

 彼女の大切なひとを苦しめてしまった。その謝罪を口にすれば、少女はううん、と首を振る。

「雪ちゃんが悪いんじゃないよ、大丈夫、燐は強いひとだから、またすぐ元気になって一緒におうちに帰れるから」

 だから泣かないで、と言われ、自分がずっと泣きそうな顔をしていたことにそのとき初めて気がついた。嬉しい楽しい悲しい辛いと感情を理解できるヒューマノイドには、涙を流すことができるものもある。自分ができるかどうかは分からなかったが、きっと可能なのだろうな、と他人事のように思った。
 ふたりでソファに並んで座り、ただひたすら待つ。何を待っているのか分からなかったけれど、とにかく待って、待って、雪男は構わないけれどしえみはそろそろ辛いのではないだろうか、と思い始めた頃ようやく、ひとりの男がソファの近くまで歩み寄ってきた。何人かの人間がその処置室を出入りしていたが、声をかけてくれたのは彼が初めてだ。目を覚ましたよ、と伝えられ、しえみと共に部屋へ足を踏み入れる。

「ッ、兄さん!」

 驚きに声を上げてしまったのは、燐が起き上がりベッドから足を下ろそうとしていたからだ。起きても大丈夫なの、まだ寝てなくていいの、と慌てて駆け寄る。彼ははは、と笑って「そんな心配すんなって」と雪男の腕をぽん、と撫でた。

「ごめん、びっくりさせたよな。でももう大丈夫だから」

 ぽんぽん、と宥めるように触れられ、ようやく昨日の夜から抱いていた緊張が解けていったようなそんな気がした。「しえみも、」と彼は雪男の後ろを見やって笑みを向ける。

「来てくれたんだな、サンキュ」

 ごめんなと謝る彼へ、少女は「ううん、いいの」と首を振った。

「燐が元気になったなら、それでいいの」

 ふうわりと笑みを浮かべたしえみへ、彼はもう一度ありがとう、と謝辞を述べた。
 少女を見る燐の目はどこかほっとしたような色を湛えており、そこには雪男には向けて貰えなかった何かが潜んでいるようだ。縋るように腕を握る燐の手の温かさを感じながらもしかしたら、と思う。
 もしかしたら雪男が側にいられなくなる日も、そう遠くはないのかもしれない。始めから雪男などおらずとも、燐の世界はしっかりと広がり温もりで溢れていたのだ。そこに入れて貰えていただけでも幸運だ、とそう思うべきなのかもしれない。
 けれど。

「帰ろうぜ、雪男」

 そう言って手を引いて貰える限りは、きっと彼に縋ってしまうだろう。自分からこの温もりを振り解けるほど、まだ雪男の心は強くあれないままでいる。


 意識が戻ったとはいえまだ無理はしてはいけないそうだ。家に戻ってもゆっくりと身体を休めるように、と言われていた。分かってるって、と燐は笑っているが、ほんとに分かってんのか、と眉を顰めたのは雪男としえみを処置室に呼んでくれた男だった。どこか眠たそうな顔をした彼は、「こいつアホだから」と燐を指さして雪男を見る。

「無駄に動かないように、君が見ておいてやってくれな」
「アホってなんだ、アホって! 否定しねぇけど!」
「ああだから怒鳴るなっつの。体温上がったらどうすんだ」

 ぺちん、と燐の額を叩いたあと、「俺はもう寝る」と彼は背を向けて去って行った。一晩中燐の処置に当たってくれていたのだろう。ありがとうございました、と声をかければ、彼はひらひらと右手を振って応えてくれた。
 燐が目覚めて安心した、としえみは既に自宅へと戻っている。無理しちゃだめよ、と釘を刺した彼女へ、燐は苦笑を浮かべて「分かってるって」と答えていた。
 来たときと同じように車で送ってもらい、言葉をほとんど交わすことなく家へと入る。やはりまだ身体にだるさが残っているのだろう、ソファに腰を下ろした燐はそのまま目を閉じて横たわろうとした。

「兄さん、寝るならちゃんと布団で寝て」

 ソファでは治るものも治らない。お願いだから、と言う雪男を見上げ、その次に天井を見上げ、「上がるの、めんどい」と少年は小さく言った。

「……分かった、落ちないように捕まっててね」

 連れていけ、という意味だろうと解釈し、燐の身体を横抱きにする。うわ、と小さく悲鳴を上げた彼が慌てて雪男の首筋にしがみついた。

「お、まえって、けっこー力持ちだな」

 昨夜も一度こうして燐を運んでいるのだが、やはり記憶にはないらしい。

「そりゃ、ヒューマノイドだからね」

 ヒューマノイドは一般的な人間よりは重たいものを持てるような設計になっている。非常事態に主人を運ぶことができるように、ということらしい。要するに、この力はこうして燐を運ぶためにあるのだ。
 捲った布団の中に燐を押し込んで掛け布団を戻す。枕に頭を埋めて目を閉じかけた燐へ、「兄さん」と呼びかけた。

「僕、ここに、いてもいい?」

 また雪男が目を離した隙に彼の熱が上がりでもしたら、今度こそ本当に混乱のあまり壊れてしまうかもしれない。何よりあんなに苦しそうだった燐に気づいてあげられなかったことが申し訳なくて、彼から離れることが怖かった。
 寝るの邪魔しないから、端っこでおとなしくしてるから、と言い募れば、苦笑を浮かべた燐は「だったら、」と布団をめくる。

「雪男も、一緒に寝ようぜ」

 雪男のようなヒューマノイドに横になっての睡眠は必要ない。両足に負担がかかるためずっと立ったままというわけにはいかなかったが、それだって座っていれば良いくらい。それを燐も知っているはずなのだけれど。

「俺、弟と同じ布団で寝るの、夢だったんだ」

 そう笑みを向けられては断ることなどできるはずがない。たとえ燐の望みを聞いていなかったとしても、彼の体温の感じられる場所に招いて貰えているのだ、雪男はきっと燐の隣に喜んで入り込んでいただろう。

「暑く、ない?」
「んーん」
 あったかくて、きもちー……

 うっとりと、本当に気持ちよさそうに目を細め、燐はぐりぐりと雪男の胸に額を擦りつけてくる。そんな彼の身体を抱き込むように腕を回してその背を撫でた。やはりまだその体温は高い、きっと起きて動いているのも辛かっただろう。
 それなのに彼はこの家に帰りたい、とそう言った。雪男と一緒に帰りたい、と。それはまだ、彼に自分が必要とされているのだと、そう考えていいのだろうか。
 兄さん、と燐の背を撫でながら小さく呟く。彼の耳に届いていなくてもいい、返事がなくてもいい、ただ言っておきたかった、彼に伝えておきたかった。

「好き」

 彼が教えてくれたその感情。数字で割り切れず、プログラムすることのできない温かくて切ない気持ち。

「大好き、愛してる」

 主人だからといった理由があったとしても、その気持ちを教えてくれたのが彼だからという原因があったとしても、それでも燐を好きだと思う心は確かにここにある。何よりも大切な存在だと、雪男を構成するパーツすべてがそう叫んでいるようだった。
 雪男の言葉が届いていたのだろう、顔を上げた燐はくしゃり、と表情を歪めて雪男を見る。今にも泣き出しそうな顔だ、と思いながらその額にキスを。

「お願い、泣かないで?」

 燐が泣いてしまうと、雪男はどうしたらいいのか分からなくなる。僕も泣かないから、と言えば彼の顔はますます歪んでしまった。
 雪男には燐との世界しかない。燐がそこにいることが雪男の世界の条件で、それ以外何も知らない、だからすべてを知りたいと思ってしまうのかもしれない。
 きっと、燐には雪男の知らない秘密がある。それはこの熱に関係があるのかもしれないし、彼がいつもどこか無理をしているように見えることに関係があるのかもしれない。すべて話してもらいたいと思うけれど、おそらく彼が口にすることはないだろう、とも分かっている。

「兄さんの、全部が知りたいよ」

 燐をただ困らせるだけだと分かっていても、そう思ってしまう。
 好きだから。
 このひとが自分のすべてだから。
 だから。
 ねぇ、お願いだよ、兄さん、と頭を抱き込み、柔らかな髪に鼻先を埋めながら雪男は請う。
 もしこの先、おそらくとても近い将来、雪男のことが必要なくなる時がくるのならば、そのときは。

「キスが、いいな」

 ヒューマノイドの起動は主人が唇に触れること。一度起動してしまえばあとは軽く唇に触れる程度では何も起きないが、スリープモードではなく完全に機能をシャットダウンさせる終了もまた唇で行う。
 六十秒以上の長い接触、それがシャットダウンの合図。

「そしたらきっと、僕は、すごく温かくて、幸せな気分のまま、眠りにつけるから」

 だからお願い、そのときは長いキスを僕にしてね。





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2012.07.19