ハロー・グッバイ(11)


 あれ以来、燐がラボへ出かける頻度は減った。この家に来たばかりの頃のように、週に一度か二度、昼に出かけて夕方帰ってくる。帰る前には必ず電話で連絡をくれて、そのたびに雪男は大通りまで迎えに出るようになった。本当はラボへ付き添いたいくらいなのだが、留守番、と言われては従わざるを得ない。だからせめて、と外灯の下で戻ってくるのを待ち、姿が見えると手を振って笑う燐へ、雪男もまた笑みを浮かべて手を振りかえす。ただいま、お帰りの挨拶を交わした後、どちらからともなく手を繋いで、他愛もない会話を交わしながらゆっくりと家へ戻るのだ。この家がまだ雪男の家でもあるうちはこれを続けていきたい、とそう思っていた。
 結局燐の高熱の原因を教えて貰えないままではあったが、そう簡単なものではないのだろうな、と気づいてはいる。何せ彼は未だに身体の調子が悪いようで、微熱がずっと続いているらしい。本来ならば療養のできる場所に移るべきだ、と進言しなければいけないのだろう。せめて病状を理解し看病のできるひとがいなければ、良くなるものも良くならない。燐のことを想うなら、きちんとそう告げてあげるのが彼を主人とするヒューマノイドの役目である。しかしそうなれば雪男がもう必要となくなることも分かっていて、先に待っている別れを思うとどうしても口に出せなかった。
 別れたくない、一緒にいたい、ずっと側にいたいのに。
 どうしてそれが叶わないのだろう。
 ただ、好きなだけなのに。
 雪男がヒューマノイドであるというのが一番の問題なのだろうけれど、作られたものだって人間のような温かな感情を抱くことができるのだ。それを教えてくれたひとは、同時に人間のような痛みを伴った感情もまた同時に雪男へもたらした。それらを知ることができただけでも、そしてその相手がほかの誰でもない燐であったことを、幸運に思う。これから先どうなったとしても、そのことだけはなくしたくない気持ちだ、とそう思った。

 燐がラボへ出かける瞬間が、雪男にとっては死刑宣告のようだった。もうこのまま戻ってこないのではないか、そんな恐怖が常につきまとう。なぜなら、彼が雪男を要らない、と判断する材料はおそらく外部から与えられるだろうと推測しているから。
 とても優しくて温かな心を持った燐のことだ、雪男のことが不要だ、とそう口にすることはないだろう。実際本当に「要らなく」なるわけではないのでは、とも思う。ただ一緒にはいられなくなるというだけのことだろうけれど、それでも彼の側にいることができないと告げられるのなら、雪男にとっては同じような意味を持つ。
 きっと近いうちに、ラボから戻ってきた燐に別れを告げられるだろう、そんな予想はどうやら当たっていたようで。
 その日、戻ってきた燐は何かを決意したような、そんな瞳をしていた。
 無言のまま手を繋いで家へ帰り、リビングへ足を踏み入れたところで「雪男」と静かに名を呼ばれる。いつも明るく、ときとしてうるさいと思えるほど賑やかな彼の声が、聞いたこともないほどの落ち着きをはらんでいる。
 来たな、と思った。覚悟はしているつもりだったけれど、一瞬頭が真っ白になった。落ち着け、と目を閉じて頭の中を整理する、もう燐が倒れたときのような無様な姿は見せられない。
 けれど、何、兄さん、と振り返った先の燐の顔を見て、保とうと思っていた冷静さが吹き飛びそうになる。どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるの。何が兄さんをそんなに悲しめてるの、苦しめてるの、尋ねたいけれど開いた口からは何の音も零れそうにない。悲しいのはこちらの方なのに、苦しいのはこちらの方なのに。
 そんな雪男を前に燐は「ごめんな」と謝った。

「ごめん、俺もう、ここでお前と一緒に暮らせない」

 なんで、と理由を問いたい。それは雪男が役に立たないようなヒューマノイドだからだろうか。ならばどんなことでもできるようになってみせるから。燐を傷つけようとするものから守ってあげられるように、ずっと笑っていられるようになってみせるから。試運転中であることが問題なら、またきちんと調節して戻ってきてはだめなのだろうか。
 離れたくない、側にいたい、好きなんだよ、兄さん。
 そう、口にできたら楽になるのだろうか。
 ごめんな、ともう一度謝った燐は、くしゃり、と顔を歪めて「大丈夫」と笑った。

「俺じゃなくても、お前と一緒にいてくれるひとはほかにもちゃんといるから」
 雪男は頭もよくて、頑張り屋で、優しい奴だから、そのひとにも好きになって貰えるよ。

 そうじゃないんだよ、兄さん、誰に好きになってもらえても、あなたからの気持ちでないと意味がない、あなたの側にいなければ意味がないのに。
 伸びて来た燐の手が雪男の頬に触れる、やはりまだ体温が高い、もはや微熱というレベルではないのかもしれない。早く横にして休ませなければ、そう思うのに雪男の身体は動いてくれそうもなかった。起動が早い、さすが最新型だ、と燐が喜んでくれていた機能はどこへ行ってしまったというのか。

「……だから少しだけ、眠っててくれな?」

 その間に身体の点検とプログラムの調整を行うのだろう。そのためのテスト起動だったのだから。そうして次に目覚めたときには雪男はヒューマノイド・ロボットとして本格的な活動を始めることになる。そのときにはおそらく、燐と過ごした記憶は消去されているのだろう。それが「調整」というものだ。
 大好きなひととの思い出さえ残せないなんて。

「ッ、ご、めん、兄さん、ごめんね」
 泣かない、って言ってたのに。

 ほろり、と瞳から零れるのは成分的に言えば人間の涙からはほど遠いものだ。けれど悲しさや嬉しさが原因だというのは人間と同じ。やはり雪男には「泣く」という機能が備わっていたらしい、と涙を流して初めて気が付いた。こんなところまで人間に近づけなくてもいいのに、と思うけれど、溢れてくるものは止まらない。雪男の言葉にふるり、と首を振った燐は、熱を持った指先でそっと目元を拭ってくれた。あまりにも優しく、まるで宝物に触れているかのように撫でてくる指にまた涙が溢れてくる。

 好きだよ、兄さん。

 人間ならばもっとうまくいろいろな言葉を使って気持ちを表すのかもしれないが、まだ「好き」という気持ちを知ったばかりの雪男にはこれが精一杯だ。

 好き、大好き、愛してる。

 紡いだ言葉に燐はうん、と小さく頷いた。

「前に僕が言ったお願い、覚えてる……?」

 もし雪男を眠らせる時がきたのなら、そのときにはキスで。
 長いキスで眠らせて欲しい、と。

「お願いだよ、兄さん」
 あなたの温もりの中で、眠りたい。

 伏せた瞳から涙を零しながらの言葉に、燐はやはりうん、と小さな声で返事を寄越した。ソファに座るように促され、ぎしり、と腰掛ける。
 ゆきお、と紡がれた名に一度だけ、目を開けた。両頬を包み込むように手を添えられ、覗き込んでくる真っ青な瞳。雪男のように泣いてはいなかったけれど、そこは悲しみの色に染まっているように見えた。
 やはり、雪男が見た中で一番綺麗なものはこの瞳だろう。
 最後に見たものが宝石のような青色であることを純粋に嬉しく思った。
 ゆっくりと瞼を閉じればまた溢れた涙が燐の手を濡らす。そうして重ねられた唇。プログラムの完全終了は六十秒以上の長い接触が必要だ。
 十五秒まで正確に数えたところで、雪男はカウントを止めた。続けていられなかったわけではなく、終わりの時間を知りたくなかったのだ。
 長い長い口づけの後。
 脳内の回路が徐々に閉じていく感覚、自分が眠りにつくのだと嫌でも分かるほど外の世界から切り離されていく。
 せめて最後に、一言だけ。
 もう目を開けることはできないけれど、大好きな兄に。



「おやすみ、」
 兄さん。




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2012.07.19