ハロー・グッバイ(9)


 着物の少女が小さな愛玩機械を肩に乗せて遊びに来た回数は、すでに片手の指を越えた。今までまったく聞かなかったのが嘘のように、燐の口から彼女の名が零れることも多くなった。好きだ、とそう言った彼は「変な意味ではなくて」と弁解していたが、もしかしたら男女感に芽生える「恋愛」という意味での「好き」という感情を持っているのかもしれない、と最近になってようやく気がついた。そういった感情を他人に知られることを恥ずかしく思うひともいるという。だからこそ雪男の質問に顔を赤くして慌てていたのだろう、と。
 彼が好きだと言うから。
 好きだと言って笑うから、だから雪男は何も言わない。そうだね、と笑って少女の存在を受け入れる。燐が楽しそうにその名を口にするのも、来訪を楽しみにするのも、笑みを浮かべてやってくる少女も、すべてを受け入れる。
 けれど、どうにももやもやとした何かがずっと身体の中に残っているようで、始めはプログラムに何かバグでも起こったのかと思った。ひどい問題が起これば強制的に燐から離されラボに戻されるかもしれない、と恐れ、こっそりと自己チェックを繰り返し行ったが、どうにもそれらしい不調は見あたらない。ならばプログラム的な問題ではなく、雪男自身の感情面の問題なのだろう、と結論づけた。
 一番近い感情をあげれば、ひとりこの家に残され燐がラボに出かけていったときのものだろう。寂しい、つまらないという想い。燐がしえみのことを語るとき、その嬉しそうな顔を見て寂しい、と思ってしまう。つまらない、と思ってしまう。彼の笑顔が見たい、と望んでいたはずなのに、だ。
 子供じみた、どころではない、まるきり子供そのものの感情だろう、おそらく雪男は燐を彼女に渡したくない、と思っている。そもそも彼は雪男の主人であり所有物などでは決してない、むしろ逆だ、所有物であるのは雪男の方だというのに。おこがましいにもほどがある。
 しかし、芽生えた感情はなかなか消えてくれず、これももしかしたら自分がテスト起動中であり、動作が不安定なせいなのかもしれない、とそう思った。
 きっと今人間社会の中にとけ込んでいるヒューマノイド・ロボットはもっとヒューマノイドらしく、理論的に冷静に人間と付き合えているのだろう。こんなにもぐちゃぐちゃとした感情に振り回されるなど、機械としてはあってはならぬことだと思う。
 ただ元をただせば、雪男にこういった感情を教えてくれたのはほかならぬ燐なのだ。「好き」という感情から生まれる独占欲や寂しさ。好きだと思う気持ちを知らなければ、こんなことを考える必要もなかったのに、とそう思う。全部燐が教えてくれたことだ、そんな燐に気持ちを掻き乱されている。

「兄さんのせい、なのに」

 責任転嫁も甚だしい、と分かってはいても、なかなか納得ができず、そんなもやもやとした気持ちが表面に表れてしまったらしい。向かい合って食事を取っていた燐が、「なんか雪男、機嫌悪い?」と首を傾げた。

「そんなことないよ」

 彼への返しがいつもより少し冷たくなってしまった、と思うが、口にした言葉を回収することなどできるはずもなく、「そっか」と燐もまた矛先を納めてしまった。どこか気まずい空気のまま食事を終え、リビングのソファに腰を下ろして良くないな、と己の言動を省みる。どう考えても先ほどの態度は主人に対するものではなかった。燐があっさり引いたのも、雪男がどこかりかりしていることに気がついていたからだろう。
 謝らなければ、と立ち上がったところで、がたん、と大きな物音が耳に届く。キッチンからだ。そこには後片付けをしていた燐がいるはずで。

「兄さん?」

 そちらへ顔を向けるが、いつもなら見えるはずの燐の姿がない。確かにたった今までいたはずなのに、と慌ててシンクの方へ回り込めば倒れ込んだ燐の姿があった。

「兄さんっ!?」

 抱き起こした彼の顔は真っ赤になっており、苦しそうな呼吸を繰り返している。わざわざ熱を計る必要もないほど、高熱に冒されているのだとすぐに分かった。思い返せば夕食時からどこか様子がおかしかった気がする。頬も赤かったし、瞳も潤んでいた、箸だってあまり進んでいなくて、どうしてそんなに異常を訴えていた燐に気がつかなかったのか、と三十分ほど前の自分を殴りたくて仕方なかった。

「兄さん、兄さん、しっかりして、ねぇ!」

 声をかけてみるが荒い呼吸を繰り返すばかりで返事はない。こういうときどうすればいいのか、どうするべきなのか。
 落ち着け、と唇を噛んで己の体内に組み込まれたデータを漁る。立っていられないほどの高熱、風邪のような病気であれば自宅療養、あるいは翌朝病院へ向かってもいいかもしれないが、さすがにこれは急を要する症状だ。まずは病院へ連れていくこと。救急車両を要請すること。
 電話、と呟いて立ち上がろうとしたところで、「ゆ、き……」と弱々しく名を呼ばれた。

「兄さんっ」

 今救急車呼ぶから、と手を取って言うが、彼は緩く首を振る、そしてかさついた唇で「俺の、ケータイ、」と言葉を紡いだ。取ってきてほしい、という意味だろうと解釈し、けれど燐をこのまま床に寝かせておくこともできなくて、「ちょっとごめんね」と断りを入れてその身体を抱えあげた。
 燐が普段使っている携帯電話はリビングのテーブルの上に置いてある。ソファに彼を横たえてそれを手に取れば、朦朧としているだろうに燐は手を伸ばしてその画面を操作した。

「ここ、に、電話……」

 たのむ、と続けられた言葉はほとんど聞き取れなかったが、向けられた携帯電話の意味を理解しコールボタンをタッチする。画面に表示されていたのは番号のみで、コール先の名前は登録されていなかった。
 トゥルルルル、という音が二回ほどですぐに電話は繋がる。

「あ、あのっ、兄さんが倒れてっ、熱が、すごくてっ!」

 何をどう言えばいいのか分からず、咄嗟にそれだけを口にする。電話口の相手が誰であるのか確認すらせずに、だ。
 向こう側にいるのはどうやら男らしい。『おや、』と雪男からすれば呑気すぎると思うような声が耳に届く。

『あなたは「ユキオ」ですね? ああ、では「兄さん」とはリンのことですか』

 リンが熱を、それは大変ですねぇ、とちっとも大変そうではない声音で男は相づちを打つ。しかしこちらの言わんとしていること、望んでいることは的確にくみ取ってくれたようで、『すぐに車を回します、そこにいるように』と言って電話が切られた。そこというのはこのリビングのことなのか、それとも玄関で待っていた方がいいのか。
 ああだめだ、混乱してる、全然思考がまとまらない。燐の手を握る自分の手が震えているのが分かる。後悔と、恐怖。

「ごめ、ごめんね、兄さん……っ」

 ほとんど待つこともなくやってきた人間たちは、燐をタンカーに乗せて運んで行く。もしここで燐が意識を浮上させ「ゆきお、も、」と手を引いてくれなければ、きっと彼が帰ってくるまで雪男はずっと玄関に立ち尽くしていただろう。それくらい、どうしていいのか、まったく判断ができない状態だった。
 燐の様子ばかりが気になって、車がどこをどう走ったのかも分からない。ただ思っていたよりも早く目的地に到着した。処置室へ連れて行かれる燐を追いかけようとすれば、君はそこへ、と壁際のソファを指さされる。待っているように、と主人以外の命を聞いても良いものか分からなかったが、雪男には医療系のデータは搭載されておらずついて行っても何もできない。分かりました、と頷いてソファに腰を下ろした。
 急激な展開に状況を処理する速度がついていかない。今もまだまともな判断ができるほど頭の中が整理できておらず、主人の役に立つためにあるヒューマノイドとしては出来損ないもいいところだ。テスト起動中とはいえ、これではあまりにもひどい。こんなヒューマノイドなど要らない、と燐に言われても仕方がないだろう。
 学習して成長していくタイプのヒューマノイドではあるが、一般常識はそれなりに始めからインプットされているのだ。専門的な治療はできずとも、応急手当くらいは知っている。熱が出た場合の処置だって、今になって考えればいくつか挙げることもできるのだ。
 それが、くったりとした燐を前にした途端すべて吹き飛んでしまった。兄さん、と口の中で小さく呟く。熱の原因が何かは分からないが、通常風邪と呼ばれる病気で命を落とす人間は少ないはずだ。けれど決してないことではない。
 ヒューマノイドに搭載されているプログラムの一つとして、どのような場面にも対応できるよう、現状からあらゆる状況を推察しておくというものがある。最高の状態から、最悪のものまで。この場合最悪とは言わずもがな、あの処置室から燐が出てこないことだ。
 それを考えぞ、と背筋が震えた。人間のような血液は巡っていないが似たような体液はあり、「血の気が引いた」という表現もあながち間違ってはいないはずだ。
 もしそうなったらどうしよう、とそう考えて震えていれば、突然目の前にこつり、と足音を立てて現れた人物がひとり。俯いていたため、ちらりと見える脚がピンクと黒のストライプという派手なタイツに包まれているということしか分からなかった。顔を上げて視線を向ける。目の下に黒いクマがあり、顎に髭を蓄えた男がそこには立っていた。

「ずいぶんと、懐いておいでのようですねぇ」

 男はにったりと口元を歪める。両端に覗く犬歯が燐のものと同じように尖っているな、とどうでもいいことに気がついた。

「あなた、は……」

 声から彼が先ほどの電話の相手だということはすぐに分かった。けれど、そこから話を展開させるだけの気力が今の雪男にはない。正直何も考えたくないのだ。
 けれど、どうやらこちらに話しかけているらしい男を前に相手にしないわけにもいかないのだろう。雪男を見下ろし、「おやおや」と男は肩を竦める。

「『人間』らしい表情をなさる」
 ヒューマノイド・ロボットとは思えませんね。

 その言葉は本来ヒューマノイドにとっては誉め言葉に値するだろう。より人間に近くあろう、自然であろうと努力しているのだから。
 けれど今の雪男にとってそれはただひたすら、能力のなさを突きつけられているように、責められているように聞こえるだけだった。何も言わず俯いた雪男を見やり、男は面白くなさそうに鼻を鳴らす。まあいいでしょう、と何やらひとり頷いたあと、「私はメフィスト・フェレス」とそう名乗った。

「あなたの『お兄さん』の後継人と言えば良いでしょうかね」

 後継人、と口の中で単語を転がしその意味を検索する。普段なら瞬時に理解できることが、今はひどく時間がかかって仕方がなかった。要するに燐の保護者のような存在なのだろう。それならば彼が助けを求めたのも頷ける。

「あなた、今の自分のバッテリー残量、把握してらっしゃいますか?」

 言われて気がつく、エンプティの警告が発せられるほどではないが、確かにそろそろ充電をしておかなければ活動ができなくなってしまうかもしれない。けれど燐のことが頭から離れず、なかなか動く気になれなかった。
 もし燐が無事にあの部屋から出てこないのであれば、雪男が充電をしたところで意味はないのだ、そう考えてしまう。
 動かない雪男を前にふぅ、とメフィストがため息をつく。

「そのソファの右隅の壁に充電用のプラグがあります。明日、リンを連れて家に戻りたいのなら、ちゃんと動けるようにしておきなさい」

 燐を連れて。
 燐のために。
 それならば動かなければならない。
 のっそりと身体を動かして充電用のスタンドを探すが、あるはずもない。普段雪男が充電する際は、専用のスタンドに踵を乗せておく。ただ常にそれを持ち歩いてはおらず、ない場合でももちろん充電は可能だ。背中へ腕を回し、背骨の付け根あたりからするり、と引きずり出すケーブル。充電ってどっからするの、と言う燐へスタンドとケーブルの説明をしたとき、「尻尾みてぇ!」と指さして笑っていたのをふと思い出した。





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2012.07.19