ハロー・グッバイ(3) 彼自身が口にしていたとおり、燐は週に二度か三度ほど外に出かけるだけで、ほとんど家にいた。この家に訪ねてくるものは食料や生活用品、娯楽品を届ける宅配業者くらいでほかにはない。彼の生活が一般的ではない、と雪男にも分かる。 雪男がここに来るまでもそれなりにひとりで楽しんではいたらしい。彼の年齢なら義務教育ではないが、学校だってあるだろうに、と思えば行ってないそうである。行かない、行けない理由は秘密とのことで。 「……燐は不思議なひとだね」 よく分からないことが多すぎてそう感想を漏らせば、彼は声を上げて笑った。 「親父(ジジィ)にはよく『単純バカ』って怒られてたけどなぁ」 ジジィ、と口にされる単語は品の良くないものであったが、そこに込められた響きがひどく優しい。もしかしたら燐の口から出てくる言葉はすべて優しく聞こえてしまうのではないか、と勘違いしそうになる。親父というのは、彼の育ての親なのだそうだ。今は事情があって共に暮らしていないのだ、と。 「もちっと頭を使って生きろ、ってよく殴られてた」 親父がぱかすか殴るから俺の頭が余計悪くなったんじゃねぇかって思う。 けらけらと笑いながら話すその様子を見るに、過去の日々は彼にとって楽しくて掛け替えのない思い出なのだろう。 燐を単純バカ、と称する気持ちは分からなくもない。まだ数日程度ではあるが同じ屋根の下で寝起きを共にし、彼のことが少しずつ分かってきた。確かに自分で言っているように頭脳レベルはかなりよろしくなく、中学レベルの漢字がようやく読める程度だ。ゲームやマンガは感覚で楽しんでいるようだが、小説となると駄目で、もちろん参考書となれば手に取るのも嫌なのだそうだ。 「そりゃ、俺だってちゃんともの知っときてぇなって思うけどさ」 雪男みたいに眼鏡かけたら頭良くなるかな、と続けられ思わずため息が零れた。 「装飾品でステータスが上がるならそれこそゲームの世界だよね」 「かっこよさ」や「みのまもり」の数値はあがったとしても、「かしこさ」は簡単には上がらないだろう。そもそも雪男が常にかけている眼鏡は本当に装飾品としての意味しかないのだから。 「僕を作ったひとは、何を考えてこんな容姿にしたのかな」 不満があるわけではないのだけれど、ヒューマノイドに眼鏡というのもおかしいと思う。機械でコントロールされている視界に矯正が必要になるはずもない。もちろんファッションとして伊達眼鏡をかけている(かけさせられている)ヒューマノイドもいるが、始めから標準装備されているのも珍しいだろう。 「そりゃあれだ、きっとそっちんが頭良く見えるから」 当然、とばかりに燐がそう言い切るので、もうそれが理由で良い気がしてきた。 「……じゃあ、顔に三つもホクロがある理由は?」 より人間らしく、とある意味欠点とも取れるような部分を敢えてヒューマノイドに搭載することがあるのは知っている。今では一見で人間なのかヒューマノイド・ロボットなのか区別がつかないものも多い。ヒューマノイドのなかには体温や体内温度を感知し両者を見分ける機能を持っているものもあったが、雪男にそれは搭載されておらず見ただけですぐに仲間であると判断することはできなかった。 きっと他のヒューマノイドから見ても、雪男はすぐにそれと分からないだろうと思う。もっとビジュアルの良いタイプであれば良かったのに、と羨む気持ちはないが、何故と疑問は抱くわけで。 その理由は燐曰く「面白れぇから」ということらしい。 「だって、眼鏡でホクロのヒューマノイドとか、俺見たことねぇもん」 押したら目からビームとか出てくるんじゃねぇの、と指を伸ばしてくる始末で、ふつふつと湧き起こってくる感情のまま眉間にしわを寄せて燐を睨んだ。 「あはは、怒った!」 ごめんごめん、と謝りながらも全く悪びれた様子が見えない。渋い表情のままでいれば、伸びてきた手にくしゃくしゃと頭を撫でられる。 「俺、雪男の顔、好きだぞ?」 ホクロメガネだけど、と続けるのだから、慰めたいのか馬鹿にしたいのかいまいちよく分からなかった。 「僕も、燐の顔は可愛いと思うよ? 子供みたいで」 「だから、子供言うなって!」 どうにも彼は子供扱いされることが嫌なようだ。雪男が口にすれば毎回むきになって反論してくる。算数もできないようなら子供でしょ、と言えば、燐はぶすぅ、と盛大に頬を膨らませてみせた。 「だから、俺だってちゃんとべんきょーしなきゃって思うんだってば」 けれど、ひとりで取り掛かろうにも本当に意味が分からなくて、結局問題集を広げてもそのまま閉じてしまうのだとか。どうりで、積み上げられたそれらが綺麗なままだったわけだ。 「だったら僕と一緒にやってみる?」 そのうちの一冊を手に取って捲ってみれば、雪男には解けるものばかり。解説することも可能だろう。なんとなくそう提案すれば、「えー……」と嫌そうに眉を顰められた。思わずくすくすと笑いが零れる。 「本当に嫌なら強制はしないよ」 もともと主人は燐の方なのだ、彼が嫌がることをできるはずもない。雪男の言葉に「うー」と眉を顰め、「じゃ、じゃあ、ちょっと、だけ……」と上目遣いで燐は言う。 「うん、ちょっとずつ、でいいんじゃないかな。僕もつきあうから」 一ページずつでも一問ずつでもいいから、と言えば、雪男が教えてくれるなら頑張ってみる、と彼は頷いた。 「あー……その代わり、っつったらあれだけどさ」 受け取った数学の問題集をぱらぱらと捲りながら、燐は口を開く。 「その代わり?」 けれど言葉の続きがなかなか発せられず、首を傾げて尋ねれば、「あー」だとか「うー」だとか、彼は呻き声を零した。言葉を探しているのか、あるいは言っていいものか悩んでいるのか。 何をどう言われたところで燐が雪男の主人であることに変わりはない。言葉を飾る必要も、悩む必要もないと思うのだけれど、彼はどこまでも雪男を「共に暮らす心のあるひと」として扱った。まるでそうすることが義務であるかのように、と思ってしまうのは、日々楽しそうに生活する彼の様子がどこか無理しているように見えるからだろうか。 「燐?」 名を呼んでソファに座った彼の前に膝を付く。問題集を持ったままの手をそっと握れば、ようやく決心したらしい。「一回だけで、いいんだけど」と燐は雪男から目を逸らしたまま言った。 「『兄ちゃん』って呼んでみてくんね?」 別に『お兄ちゃん』でも『兄さん』でも『兄貴』でも、なんでもいいんだけど。 早口で紡がれた要求は想定外で、さすがにすぐ反応を示すことができなかった。ええと、と戸惑う雪男に気が付いたのか、「あ、ご、ごめ、やっぱ今のなし、忘れて」と慌てたように燐が顔を上げて言う。耳まで赤く染めた彼の顔は照れている、というよりどこか今にも泣き出しそうに見えて。 「兄さん」 思わずするり、と言葉が口から零れた。 「――ッ」 耳にした燐はくしゃり、と顔を歪める。喜んでいるのか、悲しんでいるのか分からない。喜べばいいのか悲しめばいいのか、燐にも分かっていないのかもしれない。これでいいの、と言う代わりにもう一度「兄さん?」と呼んでみる。 ゆきお、といつもより舌足らずで甘えた響きを伴った呼びかけと共に両腕が伸ばされ、ぎゅうと抱きつかれた。この場合どうすればいいのか分からず、とりあえず燐の好きなようにさせておくことにする。 「っ、お、俺、弟、いるんだ。あいつ、身体弱くて、一緒には暮らせねぇんだけど」 だから「兄」と呼びかけられることが夢だったのだ、と震えた声で燐は言う。 「……だったら始めからそう命令してくれたら良かったのに」 そうすれば雪男は燐を「兄」と呼びかけただろう。主人が命じるのなら逆らわない。逆らえないのだから。しかしそうであると知っていてもそうしないのが燐という少年だ。 なんとなく恥ずかしくて言い出しづらかった、首を振ってそう言う彼へ、「僕で良ければ」と雪男は口を開く。 「これからもそう呼ぶけど、どう?」 背も雪男の方が高く、年だって同じくらい、むしろ雪男の方が上に見えるかもしれないがそれでも良ければ。 「俺と弟、双子なんだ」 だから年が同じくらいである方がそれらしい。 「雪男にそう呼ばれんの、すげぇ、嬉しい」 どれほど人間に近くとも、雪男はあくまでも機械でしかない。道具に兄呼ばわりされることを憤る人間もいるだろうに、どうやら彼はそうではないらしく、心の底から喜んでいるようだ。 「お前が嫌じゃなけりゃ、たまにはそう呼んでくれたらうれしーです」 嫌だ、とは思わなかった。主人の命ならばどんなことでも従うとプログラムされている。けれど、今後彼のことを「兄さん」と呼ぶのはきっと命令だからというだけではないだろう。本当に燐が嬉しそうに、幸せそうに笑うから。その顔を見たい、と思った。もっとそんな風に笑ってもらいたい、とそう思った。 「じゃあ、兄さん。これから毎日僕と勉強、頑張ろうね」 「毎日っ!?」 「そうだよ? ちょっとずつでも、積み重なれば大きいんだから。逆にちょっとしかやらないなら、積み重ねないと意味ないよね」 だから毎日、とにっこり笑って言えば、「雪男の鬼」と泣き真似をされた。 「僕は鬼じゃなくてヒューマノイドなんだけど」 「じゃあ鬼ロボ! 豆まくぞ!」 「豆、ああ大豆はいいよね、栄養素が豊富で畑の肉って呼んだひとはセンスあると思うよ。そういえば僕まだ、豆腐って食べたことないな」 「あ、なら今日は豆腐料理にすっか! よっしゃ、雪男手伝え」 本当はあまり良くないのだろう、となんとなく思う。とくに燐はまだ十代の少年で、この年から雪男のようなヒューマノイドとのみ接触し、兄弟ごっこに興じるなど彼の精神に良い影響は及ぼさないはずだ。せめてしっかり成長し心が育つまでは人間との関わりを強く持つべきである。確かヒューマノイドとの関係が人間に及ぼす影響を研究した論文に、そう結論づけられていたものがあった。それでなくとも、まだ生まれたばかりでさほどできることもなく、感情の機敏にも少し疎い雪男と兄弟ごっこをして彼は楽しいのだろうか、という疑問は消えない。 楽しいの? と尋ねれば、燐は「幸せ」と返してくれる。でもお前が嫌ならする必要はねぇからな、と必ずこちらの考えを尊重しようとしてくれるのだ。 「よく分からないけど、嫌ではないよ、たぶん」 はっきりと否定できるほど、雪男の心はまだ育っていない。ほかの平凡型ヒューマノイド・ロボットに比べてかなりスムーズに感情を理解し、より人間に近い反応をできるようになってはいるのだが、比べる対象がないため雪男自身それと知らぬままだ。 「好きとか嫌いとかもちゃんと分かるように、始めからプログラムしてくれてたらいいのに」 そう言う雪男へ、「それは数字で出てくるもんじゃねぇから」と燐は苦笑を浮かべた。 「うん、分かってる」 分かってはいるのだけれどまだ理解するには及ばない。こんな雪男だからこそ、燐はもっときちんとした人間と話をしたり遊んだり勉強をした方が楽しいのではないか、とそう思う。 「雪男といるの楽しいぞ、俺は。今まで生きてたなかで今が一番楽しいし、幸せだ」 その言葉を聞いて抱いた感情はおそらく安堵と、歓喜。こんな自分でも役に立っているらしいことに安心し、彼の「幸せ」を作り出せていることに喜びを感じる。雪男は平凡型ヒューマノイド・ロボットであり、何か特化した能力があるわけではない。その上今はテスト起動中で平均的なヒューマノイド以下の働きしかできないけれど、それでもおそらくここにいる雪男が「しなければならないこと」は燐の「幸せ」を作ることなのではないか、とそう思った。 ←2へ・4へ→ ↑トップへ 2012.07.19
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