ハロー・グッバイ(4)


「兄さん。兄さん、起きて、朝だよ?」

 燐と過ごす生活は驚くほど自然に雪男の身体に馴染んできた。まるで昔からこうするようにプログラムされていたのではないか、と思ってしまうほどで。
 雪男たちヒューマノイドにも睡眠時間が必要である。長時間稼働させれば処理能力の限界に至り、オーバーワークで強制的に落ちてしまうのだ。それを避けるために一日に最低四時間ほど、スリープモードへ移行しなければならない。その間に必要電力を体内へ取り込んで翌日に備えるのである。
 もちろん人間のような睡眠活動ではないため、充電完了と同時に自動的に起動するモードであっても、時間がくればアラームで起動するモードであっても、目覚めは良い。寝坊するなどありえず、もちろん寝ぼけたりすることもない。そんなヒューマノイドがいたら面白いだろうな、と思いながら、寝起きの悪い兄を揺さぶって起こす。それが雪男の一日の始まりだった。

「兄さん、お腹空いたよ。朝ご飯は?」

 一昨日燐と話していて気が付いたのだけれど、若干体内の電力が減っている状態で食物を摂取した方がより満足感を得るのだ。「腹減ってるときに食った方が美味ぇもんな」ということらしく、それ以来雪男は睡眠時の充電量を九十パーセント程度に止めるようにしていた。そうすると、燐の作ってくれる朝食が待ち遠しくなる。

「んー、飯、作るぅ……」

 と言いながらも燐は身体を丸めて布団に潜り込もうとする。苦笑して「兄さんってば」ともう一度燐の肩を揺さぶった。
 その振動でようやく脳が起きる気になったのか、仰向けに戻った燐がごしごしと目を擦って雪男を見上げてくる。ふにゃり、と笑みを浮かべて伸ばされた両腕。始めは何を求めているのか分からなかったが、今では自然とその腕を掴んで引くことができる。

「お早う、兄さん」
「はよ、雪男」

 そう言ってむちゅ、と雪男の頬に燐の唇が押しつけられた。頬へのキスはこの家にやってきた当日から燐にされている。一番始めはお休みのキスだった。
 雪男にそれを嫌がる権利はないし、その意志もない。だから止めずに彼のさせたいようにしていたが、少し疑問を覚えてはいる。

「ねぇ、兄さん。兄弟ってこういうことするっけ?」

 挨拶としての頬にキス。海外では習慣となっている国もあるらしいが、ここ日本ではあまり聞かない風習だと思う。それが男兄弟ならば尚更で、一体どういうつもりで燐はお早うのキスを雪男にしているのだろう。
 布団の中から抜け出た燐がもそもそと着替えをしているのを見ながら尋ねれば、「え、あれ、しねぇの?」と彼は首を傾げた。

「うーん、僕の中にインプットされてるデータではあんまりしてる風ではなさそうだけど。恋人同士くらいかなぁ」

 あるいは幼い子供に対して母親が、というシーンなら想像できる。そう答えれば、「あー、そっか、そうなのか」と燐は苦笑を浮かべた。

「悪ぃ、俺の世話してくれてたジジィがなんつーの? こう、べたべたひとに触るのが好きでさ」
「スキンシップが好きなひとだったんだね」
「ああ、そう、それ、すきんしっぷ! 抱きついてきたりキスしてきたり普通だったから」

 だからそれが家族ならば普通のことなのだと思っていたらしい。不思議に思ってたんなら早く言えよ、と燐は唇を尖らせてそう文句を言ってくる。

「そしたら最初からしなかったのに」

 そう続けられ、ごく自然にそれは嫌だ、と思った。その感情がそのまま表情と声に出てしまったらしい。

「雪男?」

 不思議そうな顔をして覗き込んでくる燐を見下ろし、キスをされないのは嫌だ、ともう一度思う。たとえそれが一般常識から外れていることであっても、お早うとキスをされ、お休みとキスをされることはとても温かくて気持ちの良い時間なのだ。

「兄さんが嫌じゃなければ止めないで欲しい」

 そのキスを奪われるのはとても寂しい。素直にそのまま口にすれば、燐は驚いたように目を丸くして雪男を見た。真っ青なその瞳はとても透き通っていて、たぶん雪男が実際に見たことあるもの(といってもとても少ないけれど)の中で一番綺麗なものはこの瞳だろうと思う。
 あ、えっと、と頬を染めて言葉を探していた燐は、「雪男が、ヤじゃねぇなら、うん……」と頷いた後ふわり、とはにかんだような笑みを浮かべて言った。

「俺さ、弟のほっぺにちゅーしてやんの、ずっと夢だったんだ」

 育ての親にたくさん抱きしめられてたくさんキスをされて、照れくさかったけれどそれが嫌ではなかった。だから今度は自分が誰かにそうしたかったのだ、と燐は言う。

「可愛い夢だね。僕が弟さんの代わりになれるのなら、いくらでも」

 雪男だって燐から与えられるキスは好きなのだから。笑って言えば、ちょっと違う、とぺちんと額を叩かれた。

「代わりとかじゃなくて、俺は今は雪男にちゅーしてぇの」

 分かったか、と鼻の頭にしわを寄せて睨み上げてくる燐の顔を見て、ああ可愛いひとだな、とそう思った。

「っしゃ、朝飯作るか。パンとご飯、どっちがいい?」
「昨日ご飯だったから今日はパンかな」
「おっけ。野菜切ってサラダ作って、あとは卵でも焼くか」
「あ、兄さん、目玉焼き! 目玉焼き、僕が作る」
「ははっ、じゃあ任せた。今日は焦がすなよ? 兄ちゃんは黄身が半熟くらいが好きです」
「う、が、頑張る……」

 残念なことにと言うべきか、面白いことにと言うべきか。料理に関することについて、雪男は一般レベルより下の能力しか有していないらしい。そこまでのプログラムを組み込んで貰えていないだけのことだとは思うが、単純に雪男という名付けられたヒューマノイドがその行為を苦手としているだけなのかもしれない。
 ほんの少しのプログラムの違い、盛り込んだデータの違いでヒューマノイドにも個体差が出るのは有名な話で、完全に同じものを作ろうと思えば素材から何まですべて同じものにしなければいけない。それだって起動してそれぞれ別の人と過ごせば徐々に違いが出てくるのだから、そういう点では人間とほぼ同じと言えるだろう。

「……僕は、ほんとに料理できるようになるのかな……」

 今日はかろうじて目玉焼きを焦がさなかったが、燐が希望する半熟の黄身には仕上げられなかった。九割ほど固まってしまっているそれをつつきながら、「できるできる」と兄は笑う。

「なんつっても俺が教えてんだしな! だいじょーぶ、兄ちゃんに任せろ!」

 どん、と胸を叩いて燐は言うが、どうにも雪男にはそこまでの自信が持てない。向いてないな、となんとなく思うのだ。

「そう言うなら頑張ってみるけど……」

 まあいざとなれば兄さんがいるからいいよね、と作る方も食べる方も丸投げにしてみれば、なんだそりゃ、と笑われてしまった。そんな彼は何でもないことのようにさらりと告げるのだ。

「駄目だぞ、雪男。お前だっていつかはちゃんとしたひとのとこに行くんだから。できることは一個でも多くなっとかねぇと」

 さも当たり前であるかのように。いや実際に彼の言葉は事実であり、当たり前も何もあったものではないのだけれど。
 そう言われるまで、雪男はすっかりと忘れていた。完全に記憶から消去していたわけではない、その事柄がどういう現実を示しているのか意図的に考えないようにしていた。
 この家に来たときに燐は言っていたではないか、自分は仮の主人のようなものだ、と。このテスト起動が問題なく終われば、いずれ彼と離れなければならないときが来る。
 それが一体いつのことかは分からないができるだけ遠い未来でありますように、と願ってしまう程度には雪男はこの生活を楽しんでいた。




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2012.07.19