ハロー・グッバイ(5)


 ひとりでこの家に住んでいるせいなのか、あるいは彼を育てたひとの影響なのか。燐はかなりスキンシップが好きらしい。お早うとお休みのキスはあれからも欠かさず行っているし、雪男の腕に触れたり肩に触れたり抱きついたりということはほぼ毎日のこと。
 そのスキンシップは、彼が用事があると出かけて帰ってきたときによりひどくなることに最近気が付いた。疲れているのかもしれない、帰ってきた家に誰かがいることが(たとえそれが機械であっても)嬉しいのかもしれない。
 どこへ何をしに出かけているのかは聞いていないので知らない。基本的におしゃべりで、何でも話したがる燐があまり口にしない事柄であるため、聞いて答えが返ってくるかどうか分からなかったのだ。何でも聞いていい、と言われてはいたが、彼が答えづらいだろうと分かることを聞くほど無能ではない。そうだと察することができる程度には、雪男は燐について学習しているのだ。
 燐がいない時間、この家はとても静かになる。テレビもパソコンも勝手に使っていい、と言われてはいるが、燐がいないのにそれらを楽しむ気にはなれず、結果ひとりで本を読んでいるため響く物音は紙の擦れる音と、時々冷蔵庫がふぉん、とファンを回す音くらいなものだ。

「ただいまー!」

 そんな家も、彼が帰ってくると途端に明るい光で満ちる。今の今まで表情など忘れてしまったのでは、と思うほど淡々と本を読んでいた雪男の頬も自然と緩み、「お帰り兄さん」と振り返って燐を出迎えた。

「お、洗濯物入れといてくれたのか、サンキュ、連絡しようかどうしようか迷ってたんだ」

 今はもう止んでいるが、先ほど小一時間ほど雨が降ったのだ。それまで天気が良かったこともあって外に干していた洗濯物は乾いていたため取り込んで、ついでに畳んでおいた。良い子、と笑った燐がぎゅう、と抱きついてくる。触れる燐の体温はいつも温かくて、平均よりも少し高いのかもしれないな、とそう思った。
 ぽんぽん、と背中を撫でる手も優しくて、子供扱いされていると思いはするものの嫌な気には全くならない。むしろ沸き起こってくる感情は嬉しさと言って間違いはないだろう。
 こうして燐に抱きつかれることは嫌いではない、けれどどうにも手持ちぶさたで、空いた両腕をどうすればいいのか分からないことがある。こういうとき人間はどうするんだっけ、と考えたのはもしかしたら今が初めてかもしれない。抱きつかれたら、自分の両腕をどうすればいいのか。

「ッ!?」

 考えて、きゅう、と燐を抱きしめ返せば、腕の中の細い彼の身体がびくりと跳ねた。あまりに大きいな反応だったため、雪男の方も驚いて身体を離してしまう。

「え、あ、ご、ごめん。えっと、間違ってた、かな……」

 人間は、相手のことが嫌いでなければ抱きつかれたらこうして抱きしめてあげるものだと思った。雪男が燐のことを嫌いであるはずもなく、だからこうするのが正しいのだろうと考えたのだけれど。ごめん、ともう一度俯いて謝れば、「あ、ちが、違う! ヤじゃねぇし、間違ってもねぇから!」と慌てた燐が否定の声を上げる。

「ちょっとびっくりしただけ」

 今までそんなことやんなかっただろ、と言われ、確かに、と頷いた。彼が抱きつきたいと思い実行しているのであれば、その行動の邪魔をするべきではない、と大人しくしていたのだけれど、もしかしたら燐は今のように抱きしめ返してもらいたかったのかもしれない。
 照れたように、それでもどこか嬉しそうに笑う彼を見下ろし、「だったら」と雪男は首を傾げて言った。

「僕から兄さんに抱きついてもいい?」

 そう尋ねれば、燐は雪男を見上げてぱく、と口を開閉させた後、俯いて小さく「ん」と頷く。少し分かりづらい返答ではあったが、許可さえ貰えればこちらのものだ。目の前にある身体をぎゅう、と腕の中に抱き込む。燐がことあるごとに雪男に触れようとしたり抱きついてきたりしていた理由がなんとなく、分かったような気がした。
 気持ちが良いのだ、こうして燐を抱きしめていると、とても気持ちが良くて心が安らぐ。ひとと同じような脳細胞があるわけではないが、似たような機関は存在しているわけで、きっと心地よい刺激を与えるような信号が今発信されているのだろう。
 そんなことを思いながら燐を抱きしめていれば、「なんか、」と燐は小さく呟いた。

「安心するなぁ、お前、温かいから」

 すげぇ気持ち良い、と雪男を見上げて笑みを浮かべる。彼もまた同じような心地よさを覚えてくれていたのだと知り、雪男も頬が自然と緩んだ。この身体の体温は体内で動く機械から発せられる熱が漏れているものだ。本来はもっと高熱になるのだが、それだと人間と生活することなどできるわけもなく、冷却用のスキンで身体を覆ってひとに近い体温へ調節している。そんなものでも燐が好きだと、安心すると言ってくれるならそれでいい、とそう思った。

「ゆき、俺、眠ぃ」
「ん、いいよ、寝て。夕飯作る頃に起こしてあげる」
「……離れんの、勿体ねぇ」
「じゃあ、こっち、おいで?」

 燐が持ったままだった荷物をテーブルの上へ置き、外出用に羽織っていたジャケットを脱がせ、手を取ってソファへ導く。腰を下ろした足の上に燐を横に抱え、きゅうと抱きしめた。まるで幼子をあやすような姿勢だったが、彼は嫌がる様子も見せない。

「重くねぇの……?」

 もともと燐は睡眠時間を多く必要とするタイプで、家の中でもよく居眠りする姿を見かけた。とろん、とした目で見上げてそう尋ねられ、「大丈夫だよ」と答える。もし雪男が人間であれば辛かったかもしれないが、幸いなことにヒューマノイドであり、燐の体重程度ならば抱えられる腕力は搭載されていた。同じ姿勢でいることはあまりよろしくはないが、疲れを覚えたり痺れを覚えたりすることもない。
 気にしないで寝ていいよ、と燐を抱き込めば、ん、と掠れた声で返答があったのち、こてん、と肩に頭を預けられる。重い、と思うことはないが負荷は覚えるわけで、本来なら余計な負荷は避けるべきなのにどうしようもなくこの重さが心地よい。
 雪男の腕の中でくぅくぅと子供のように眠る燐を見下ろし、ふわり、と温かさが湧き起こってくるのを感じた。彼を見て「可愛い」と思うことは多かったけれど、今雪男の中にある感情はおそらくそれだけではない。ずっとこうしていたい、この温もりを離したくない、なくしたくない、この幸せそうな寝顔を守りたい。きゅう、とあるはずのない心臓が締め付けられるような、意味もなく叫び出したいような。少し混乱しているのかもしれない、と冷静な自分が判断しているが、その混乱すらどこか楽しくて。
 もしかしたら人間たちは、こういう気持ちのことを「愛しい」と言っているのかもしれない。




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2012.07.19