ハロー・グッバイ(6)


「じゃ、行ってくるな。夕方くらいには帰って来れっから」

 良い子で留守番してろよ、と言って燐はいつものように出かけてしまった。笑顔で手を振って見送り、ぱたむ、と玄関の扉が閉まったところでふぅ、とため息をひとつ。主人の命であるため、ここで留守番をしているしかないが正直面白くはない。燐がいない空間など雪男には何の楽しみも見つけられない。たとえ燐がぷーすかと鼻息を立てて眠っているだけであったとしても、そこに彼がいるということだけで雪男の世界は光に満ちるのだ。

「どうしようかな……昼寝でもしちゃおうかな……」

 ぽつり、零れる独り言。聞くもののいない場所で言葉を発しても意味がない、と理解はしている。燐の真似をしてわざと音にして紡いで以来、時折自然と口にするようになってしまった。自分の感情を整理し、理解するにはそれなりに有用な手だと思う。
 本を読む気分にもなれず、もう一層のこと燐が帰ってくるまでスリープモードになっておこうかと思案する。そうすれば彼がいないということを気にすることもなく、寂しく思うことも、つまらなく思うこともない。それはそれで良いかもしれない、と考えながらソファに腰掛け、目を閉じた。
 テスト起動期間がどれだけなのか、雪男自身知らない。尋ねれば燐は何か答えてくれるかもしれないが、はっきりとこの日が終わりと聞きたくなかった。できればこのままでいたい、と思っているからだろう。もちろん命じられたら逆らえないため、この家を去ることにはなる。けれど、ここの生活が楽しいのだと、燐と一緒にいることが好きなのだということだけは否定しないでもらいたかった。
 普段はほとんどこの家から出かけない燐でも、外には彼の世界が広がり、雪男の知らない誰かとの関係も築かれているはずだ。その広がりのある世界を羨ましいと思っているのか、あるいは雪男の知らない燐を知っている誰かを羨ましいと思っているのか。
 人間とヒューマノイドの関係はあくまでも使用する主人と使用される道具でしかない。そのことについて誰よりも理解しているのは、理解させられているのはヒューマノイド側なのである。人間を害することがないように、とプログラムされているのだ。
 だから雪男は待つことしかできない。留守番をしていろ、と言われたため、この家から出ずに燐の帰りを待つことしかできない。少し疲れた顔をして帰ってきた燐を「お帰り兄さん」と迎えて、抱きしめてあげること、それが今雪男にできる唯一で最大のことだろう。

 どうして彼のような少年が平凡型ヒューマノイド・ロボットのテスト運転を行っているのか、その事情はまるで分からない。雪男の中に登録されている事象をいくつか組み合わせて想像をしてみたが、どれもしっくりと来なかった。要するにそれらしい想像がまったくできなかったのだ。何か複雑な事情があるのか、あるいは研究の一環とも考えられる。けれど、どんな事情があったとしても雪男にはどうでもいいことで、今はただこの生活が一秒でも長く続くことを祈るだけだ。その間にできるだけたくさん燐と会話をし、できるだけたくさん燐を抱きしめ、できるだけたくさん燐の笑顔を見ておきたい、とそう思う。
 好き嫌いという感情はプログラムされるものではない、と以前燐はそう言っていたが、確かにこんな自分でも上手く言葉にできないようなものはプログラムしようがないだろう。ひとと触れあい、コミュニケーションを取るうちに芽生えてくる新しいもの、そこに含まれている感情。それは雪男の中にインプットされていたどの気持ちとも合致せず、だからこそ「好き」というのはこの気持ちのことを言うのだろうと思った。
 だた「好き」だという感情にも、家族としての愛情だとか恋人としての愛情とか、様々な種類があることは知識として知ってはいる。けれど、今雪男と関わりのあるものは燐ひとりだけであり、愛情の種類などまだ判別できるほど学んではいない。だからどんな「好き」なのかは分からなかったけれど、それでも燐のことは好きなのだ。それだけは間違えようのない事実で、誰にも否定させない。

「早く帰ってこないかなぁ……」

 閉じていた目を開け、ぽつり、呟く。やはり何もせずにぼぅとすることはできないようで、スリープしないのならばせめて、と最近よく目を通している料理のレシピ本を持ってきた。何でも美味いけどやっぱ肉だよなぁ、と笑う彼は先日好物だというすき焼きを作ってくれた。醤油と砂糖で味付けされたそれは確かに美味しくて、翌日味の染み込んだその残りで作ってくれたすき焼き丼も美味しくて、どんなに練習してみても燐が作ってくれたものには敵わないかもしれない、とそう思った。
 人間世界には「家庭の味」というものがあるそうだ。自動調理機械や外で買うことのできる食事が増えたため、今では少し廃れ気味らしいが、各家庭の母の作る味は子供にとっては忘れられない一生の味付けらしい。
 その点で言えば雪男の「家庭の味」は燐の作るものだろう。ある程度の知識を植えられた状態で目覚めたとはいえ、まだ人間の生活をあまり理解していない大きな子供を根気よく世話し、食事を与えてくれた、母親のような兄。
 あんなにも優しくて可愛らしいひとを好きにならないはずがない。
 ひとりそう結論づけたところでドアノブの動く金属音が聞こえた。がばり、とソファから腰を上げて玄関の方へ走る。

「ただいまー……っと、うぉわっ!?」

 燐が靴を脱ぐ間も与えずに抱きつく、数時間ほどしか離れていなかったけれど、一緒に過ごす時間を重ねれば重ねるほど、離れている時間が辛く、寂しくなってきた。抱きついたまま「お帰り、兄さん」と言えば燐はきちんと「ただいま」と返してくれる。そんな律儀なところが好きだ。

「どした、雪男、寂しかったか?」

 からかうように言いながらも決して雪男を突き放そうとせず、抱きしめ返してくれる優しいところが好きだ。

「うん、すごい、寂しかった」
 兄さんいないと何してもつまらないよ。

 素直にそう言えば、少しだけ驚いたような顔をした後、「俺も」と照れたように笑う顔が好きだ。

「早く雪男んとこに帰りたくて、走ってきた」

 以前はこの家に戻ってくることがこんなにも楽しみではなかったのだ、とリビングへ向かいながら燐は言う。

「そりゃ自分んちだし、一番落ち着くけど、やっぱり雪男がここにいてくれるから」

 だから早く帰ろうとそう思う。早く帰りたいとそう思う。うちに来てくれてありがとな、と笑った燐の腕を引いてもう一度抱きしめた。雪男は鑑賞用のヒューマノイドではないため、そこにいるだけでいいというものではない。だから謝辞を述べられる筋合いはまるでなく、むしろありがとうと言わなければならないのはこちらの方だというのに。
 燐は心根が真っ直ぐで、自分の感情を素直に口にする。だから彼の言葉は偽りではないだろう。雪男がここにいることで、燐も幸せになっているのだ、と。雪男は燐の側にいたいと思い、燐もまた雪男にここにいてもらいたいと思っている。
 ねぇ兄さん、と燐の頭に頬をすり寄せながら請う。

「僕、ずっと側にいたいよ」
 いていい?

 子供のような仕草をする、自分よりも身体の大きなヒューマノイドの背を宥めるように撫で、燐は笑みを浮かべるだけで答えない。
 嘘のつけないそんなところも、好きだなと眉を寄せてそう思う。こみ上げて来るものは柔らかくて温かい気持ちに少し似ている。けれど思わず笑みが零れてしまうような感情ではなく、むしろ苦しくて仕方がない。悲しい、寂しい、そんな気持ちが混ざっているのだろう。「好き」という気持ちはただひたすら優しいものではないのだ、と気が付いた。




5へ・7へ
トップへ

2012.07.19