ハロー・グッバイ(7)


 数字でプログラムされているため、割り切れない、具体性のないものが苦手だ。人間と関わることで学べることも多くあるが、関われば関わるほど分からなくなるものも出てくる。とりわけ、その「人間」のことが分からないのだ。
 どうすれば燐は幸せなのだろう。
 ここ最近、ずっとそのことばかり考えている。
 燐のことが好きだ、と分かった。好きだという気持ちはこういうものなのだろう、と理解した。おそらく燐以外の誰か、あるいは何かに対しても抱くことができる感情で、他に接触するものが増えれば好きだと思うものも増えていくだろう。けれど、燐のことが好きだ、と思う気持ちはなんとなく、「一番」だと思った。他の何を好きになったとしても雪男の中の一番は燐だ。これからもずっと燐であり続けるだろう。
 燐の笑っている顔が好きだ。楽しそうに、幸せそうに、照れくさそうに笑っている顔が好きだ。それが雪男に向けられている笑顔であれば尚更好きだと思う。
 そんな顔ばかり見ることができるのならばいいのだろうが、いつも明るくて騒がしい燐は時折酷く辛そうな表情をする。雪男にはそんな顔を見せまいとしているようで、だから知らない振りをしているけれど、何がそんなに悲しいのかまったく分からない。悲しいことがあるのなら話してもらいたい。辛いことがあるなら頼って欲しい。まだ何もできない、出来損ないのヒューマノイド・ロボットではあるけれど、これでも主人のためにとそれなりの知識を詰め込まれてはいるのだ。たとえ有用な道を見つけることはできなくても、一緒にいることはできるのに、と。

「……ああ、そっか、それもそのうち、できなくなるのか……」

 ともすれば忘れそうになる、今自分がテスト起動中なのだということを。忘れてしまえればどんなに良いだろう。そうすれば、何も不安を抱くことなく過ごすことができるのに。
 こういうときばかりは、簡単に物事を忘れないヒューマノイドの記憶回路が恨めしい。
 沸き起こる数々の不安を燐に直接聞くことができたらいいのだろうが、それも簡単にできそうもない。答えを得ることが怖いのだろう。その先に広げられる世界を受け入れる余裕が今はまだない。

 結局は上辺だけの平穏な日々を過ごすうちに、ふたりの生活に明らかな変化が表れてきた。燐の出かける頻度が上がったのだ。雪男が目覚めたばかりのころは多くて週に三度だったが、今は土日以外はほぼ毎日。夕方には戻ってくるが、それでも燐のいない家に取り残される回数が増えて雪男としては大変に面白くない。テスト起動だというのなら、きちんと側で見てくれていなければ困る、と筋違いな怒りを抱きさえしてしまう。
 テスト起動中であることを忘れたいくせに、それに縋って燐を拘束しようとする。ああこれが矛盾というものか、とどこか他人事のように己の心の葛藤を分析した。
 整合性の取れない複数の感情が生み出す力は思っていたよりも強く、それに突き動かされるように、とうとう雪男は燐に尋ねてしまった、いつもどこに出かけているのか、と。

「あれ、言ってなかったっけ?」

 その答えは拍子抜けするほどあっさりと与えられる。どうやら燐の方は既に教えていると勘違いしていたらしい。

「雪男を作ったラボだよ。一応俺もそこにショゾクしてんの。お前の様子とか、いろいろ報告しなきゃいけないことがあってさ」

 最近呼び出し多くてヤになるよなぁ、と眉を下げて苦笑する。

「メールとかじゃ駄目なの?」
「それ、俺も言った。けど直で来いってさ。時代遅れだよなぁ」

 ごめんな毎日出かけて、と申し訳なさそうに頭を撫でられ、先ほどまで抱いていた不満が一気にどこぞへ吹き飛んでしまう。自分も大概現金なものだ、と思いながらううん、と首を振った。燐が気にかけてくれている、それだけでも十分に舞いあがてしまっているのだ。
 たとえ雪男の側にいることが仕事であってもいい、とにかく一緒に居ることができるのならば、この家に置いてくれるのならばそれだけで。
 燐の側にずっといたい、燐に幸せになってもらいたい。そう思うけれど、何をすればいいのか分からない。何ができるのかが分からない。雪男にできることといえば大人しくこの家で待つことくらいで、料理だってほとんど上達しないまま。最近ようやくルーがあればカレーとシチューが作れるようになった。

「兄さん、遅いなぁ……」

 今日もまた燐はラボへ出かけている。何も言っていなかったため、夕方には戻ってくると思っていたのだが、時計の針は既に六時半を過ぎていた。いつもならばとっくに帰宅し、キッチンで夕飯の準備をしている時間だ。
 お腹空いた、と呟いてキッチンへ足を向ける。これから帰って来ても何か作ろうと思えばさらに時間が掛かるだろう。きっと雪男よりも燐の方が空腹のはずで、だったら何か作って待っていた方が効率がいいのではないか、と思った。
 いや、効率の問題ではない、燐にただ喜んでもらいたいのだ。
 戸棚を漁ってシチューのルーを発見した。冷蔵庫の野菜室には燐が料理好きであるため常備野菜が豊富に揃っている。じゃがいも、玉ねぎ、にんじんを並べ、冷凍されていた豚肉を引っ張り出した。燐のいないキッチンで料理をするのは初めてだったが、作ったことがない料理ではなく、箱の裏の説明通りにすれば食べられるものはできるだろう。
 そう思っていたのだけれど。

「……なんか、辛い?」

 くつくつと煮えるそれをスプーンで掬って舐めてみるが、以前食べたものより美味しくない気がする。どうしてだろうか、と記憶を漁り、そういえば燐が牛乳を入れていたな、と思い出す。けれど分量が分からず、諦めて取り出した牛乳パックをまた冷蔵庫へ戻した。「適量」だとか「少々」だとかいう表現が分かりづらい、と料理本に文句をつけて燐に苦笑されたこともあるくらいだ。
 彼ならばきっとシチューにはパンだろ、と生地を練ってパンを焼くのだろうけれどさすがにそこまではできない。雪男ができることといえば、食パンを用意することくらいだ。メインしかないけれど、おかずは燐になんとかしてもらおう、と甘えたことを思ってテーブルを眺めていてもまだ燐は帰ってこない。本当に遅い、どうしたのだろうか、何があったのだろうか。何かあったのだろうか。不安が徐々に膨らんでくる。
 電話を、してみようか。
 ヒューマノイド・ロボットの中には直接体内に通信機関を備えているものもあるが、雪男はそのタイプではなく、人間と同じようにそれ用の外部機械が必要だった。この家には常設されている電話がなく、雪男と燐とそれぞれが携帯電話を有している。もちろんこの家から出ることのない雪男のそれは、燐からの連絡を受け取る用でありこちらからかけたことは一度もない。
 ソファに腰を下ろして携帯電話をじっと見つめる。電話をしても燐ならば怒ることはない、と分かっている。むしろ喜んでくれるかもしれない。けれど、もし何か仕事の最中であれば、と考えれば触れる指がどうしても躊躇いをみせた。この時間まで戻ることができないほど忙しい、と考えれば、雪男からの連絡など邪魔にしかならないのではないだろうか。
 そう悩んでいたところで突然、手の中の電話がブブブブブ、と振動を伝えてきた。着信はもちろん燐から、だ。

「もしもし、兄さん!?」

 慌てて出れば、『ごめん、雪男、電話できなかった!』と第一声で謝られてしまう。

『今何時? うわ、七時半じゃん! マジごめん! これから帰る! 腹減っただろ? なんか冷蔵庫にあるもん適当に食ってていいからさ』
「あ、ねぇ、兄さん、僕、シチュー、作ってみた」
『え、雪男ひとりで!?』
「うん、ごめん、勝手に台所使って……」
『いやそりゃいーよ、別に。火傷とかしてねぇか?』
「大丈夫」
『そっか、ひとりで作ったのか、すごいな、雪男! 今から帰るから、俺の分は残しとけよ?』
「もちろん、兄さんと食べるために作ったんだから。あ、でも、その、あんまり、美味しくないかも、しれないけど……」
『そんなわけあるか。雪男が作ったんだろ? 美味いに決まってんじゃん』

 つか、マジでマッハで帰るわ、と電話を切りかけた燐を慌てて止めた。どうした、と問われ、少しだけ迷って「あの、」と言葉を紡ぐ。

「迎えに、行っていいかな、夜、遅いし、外暗いし、」

 だから、と続けた雪男へ『んー、でもお前、その家からほとんど出たことねぇじゃん?』と燐は尤もなことを口にした。確かに郵便物を取りにいくだとか洗濯物を干したり取り込んだりするとか、そういったことくらいでしか出ていないが、周辺の地図は頭の中に入っているし、燐がいつも行っているラボの場所も、そこへの道順も把握している。そんなに距離があるわけでなく、彼も常に徒歩で通っていたはずだ。

「でも、迎えに行きたいよ、兄さん」

 少しでも早く燐に会いたい、彼の顔が見たい。そんな気持ちが伝わったのか、電話の向こうで燐がふぅ、とため息をついた。直接見ていなくても分かる、きっと彼は今仕方ねぇなぁ、と苦笑を浮かべているだろう。

『家出て真っ直ぐ行ったとこの大通りまで出ててくれるか? 外灯の下』

 そこならすぐ見つけられるから、と言ってくれた燐へ、ぱぁ、と表情を明るくして「うん、うん!」と頷いて答える。家の戸締りはきちんとするように、リビングの電気はつけたままでいいから。そんな指示を聞きながら玄関へ向かい、いつもの場所に置いてある家のスペアキーを手に取る。

『じゃあ、すぐそっち行くから』

 またあとでな、という言葉にうん、と答え電話を切った。ばたばたと靴を履いて家の外へ。とにかく早く大通りに辿りつきたくて足を踏み出しかけたが、早速玄関に鍵を掛けるのを忘れている。
 燐がラボへ向かったのは昼過ぎで、時間にすれば本当に数時間程度だ。けれど寂しいと思う気持ちは止められないし、早く会いたいと思う。
 早く会って、燐の顔を見て抱きしめたい。
 抱きしめて、その体温を感じたい。
 柔らかな髪を撫でて、肌に触れて、真っ青な瞳を見たい。
 寂しかった、と伝え、お帰りと彼を迎える。
 そうして手と手を繋いで帰るのだ。
 ふたりの家に。




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2012.07.19