ハロー・グッバイ(8)


 そのことは、事前に燐から聞いていた。しかも許可を取る形で。

「明日、客呼んでもいいか?」

 今は雪男もこの家で暮らしているとはいえ、主人は燐であり、自分は彼の道具に過ぎない。けれどそういったニュアンスのことを口にすれば彼があまり良い顔をしないことを学習しているため、「もちろん構わないよ」と人間のように答えた。
 本当は少し怖かった。まだ燐以外の人間と話をしたことがなく、どんな顔をしてどんなことを言えばいいのかさっぱり分からないのだ。テスト起動中とはいえそれではまずいのだろう、となんとなく思う。だからこそ燐もまた、わざわざ客を呼ぶのかもしれない。

「すっげぇ良い奴でさ! 笑った顔とかちょー可愛いの!」

 きっとお前も好きになるぞ、と嬉しそうに燐は言う。

「ええと、それってつまり兄さんはそのひとのことが好きってことなの?」

 今の言葉を受け止めればそういう意味が含まれることになる。首を傾げて言えば一瞬何を言われたのか理解できなかったのだろう。きょとんとした燐は、次の瞬間ぼふん、と音でもしそうなほど顔を真っ赤に染めた。そして「あ、いや、ちが、そ、へんな意味、じゃなくて!」とわたわたと両手を振り回す。
 変な意味ってどんな意味だろう、とますます首を傾げてしまった雪男に気づき、けふん、と咳払いをして燐は「悪ぃ」と謝った。謝罪の意味もよく分からない。人間の言動についてはまだまだ学ばなければならないことがあるようだ、と思っていれば、「ええとな、」と燐は赤い顔のまま口を開いた。

「明日もっかいちゃんと紹介するけど、本当に優しくて良い奴なんだ。俺はそいつがすごく好きだから、雪男も好きになってくれたら嬉しい」

 ってことが言いたかったのだ、と丁寧に言い直される。それならば雪男にも理解できる感情だ。分かった、と頷いて笑みを浮かべる。燐が好きになるくらいのひとなのだから、きっと本当に良いひとなのだろう。それならば雪男が嫌いになるはずがない。

 翌日の午後、インターフォンを鳴らしてやってきたのは、いまどき珍しく和服を纏った少女だった。燐よりも背が低いため当然雪男も見下ろさなければ視線を合わせられない。ほんわかとした雰囲気を持つ彼女は、玄関扉を開けた雪男を見上げ、ぽかんとした顔をしていた。

「ええと、あの、あなたが、兄さんの言ってた……?」

 そう尋ねれば、「あ、え、えと、あの、あのっ」と彼女は真っ赤な顔をしてわたわたと着物裾をはためかせた。この仕草は昨日も見たような気がするなぁ、と思っていれば、「初めまして!」と少女は勢いよく頭を下げる。

「あの、私、杜山しえみって言います、えと、その、燐の、あの、知り合いって、言うか、」
「あ、ひでぇ、友達じゃねぇの?」

 俺はそう思ってんのに、と雪男の後ろからひょっこりと顔を出した燐が唇を尖らせて言い、「ああああのっ、そーいう意味じゃなくて、ええとだから!」と彼女はますます慌ててばたばたと裾を翻した。そんな少女を見てあはは、と笑った燐は、「面白れぇやつだろ?」と雪男を見やる。

「えーっと、うん、可愛いひとだってことは分かった」

 おそらく少しあがり性なところがあるのだろう。訪ねてきた友人の家で、知らない顔が出てきたものだから驚いてしまっているように見える。雪男の存在を聞いていたとしても、彼女には少し刺激が強かったようだ。
 雪男の言葉に「や、やだ、可愛いとか、そんな……」と更に顔を赤らめて俯いてしまう。ぷしゅう、と頭のてっぺんから湯気でも立ちそうな少女を前に顔を見合わせて苦笑し、「ほら、しえみ、中入れよ」と燐が促した。

「あの、この子、ニーちゃんも一緒なんだけど、いいかな……」

 そう言った少女の肩には手のひらサイズの小さな緑色のぬいぐるみが乗っている。何かと思えば、小型の愛玩機械だったらしい。「にぃ!」と鳴いて手を振るそれは、素直に可愛らしいと思った。

「ははっ、とーぜん、良いに決まってるだろ」

 ほら、しえみ来るっつーからクッキー焼いたんだ、と言う燐へ、「ほんと!?」と少女は嬉しそうに顔をほころばせた。

「燐の作るお菓子、大好き!」

 手を叩いて喜ぶしえみをリビングへ通し、キッチンへ移動して燐はお茶の準備を始める。その間彼女と向かい合うことになるわけだが、やはりまだ互いに初対面で何をどう話せばいいのかが分からない。少女も戸惑っている様子が伺え、このまま黙ったままでいるというのも気が引けた。えっと、と呟いて、できるだけ穏やかな表情になるように努めて頬を緩める。

「しえみさん、とお呼びしてよろしいですか?」

 燐は主人であるが、砕けた口調と呼び捨ては彼の命だからだ。さすがに主人の友人に対してそうするのは抵抗があり、丁寧な口調のまま尋ねれば、「は、はい!」と返事があった。

「あの、そんなに緊張されなくても……」

 聞いてらっしゃるとは思いますが僕はヒューマノイド・ロボットですので、と言えば、「え、あの、うん、聞いて、る、けど……」としえみはおどおどとした視線を向け、「だって、」と頬を赤らめて俯く。

「あの、聞いてたより、かっこ良かった、から、その……」

 少し驚いてしまっているのだ、と言われ喜べばいいのか複雑だ。ヒューマノイドであるのだからつまりこの容姿も作られたものである。それなりに見れる顔の作りにはなっているはずだが、かといって観賞用のヒューマノイドのように見惚れるほどの美形というわけではない。未だに三つあるホクロのことを燐にからかわれるくらいだ。苦笑を浮かべてありがとうございます、と礼を述べたあと、そういえば名乗っていなかったことを思い出した。

「すみません、挨拶がまだでしたね。初めまして、僕は今ここに住まわせてもらっているヒューマノイド・ロボットで、雪男と言います」

 どうぞお好きなようにお呼びください。
 笑みを浮かべたままそう言えば、「好きなように……」としえみが呟いて首を傾げる。

「雪男、くん? 雪男さん、とか」
「あの、呼び捨てでも構いませんけど……」
「でもだって、なんか、そんな感じじゃ……」

 そう口ごもった彼女はすぐに「あ!」と目を輝かせて言った。

「じゃあ、『雪ちゃん』! 雪ちゃんでどうかな」

 雪ちゃん、と紡がれた言葉を反芻し、ええと、と今度は雪男の方が口ごもってしまう。「ちゃん」という接尾語は一般的には女性かあるいは子供に対して使うものだと認識しており、まだ世間を知らない子供のようなものとはいえ、外見が男でありそれなりの年齢に見える雪男に使っても大丈夫なものなのだろうか。そう悩んでいれば、「だ、だめかな」としえみがしょんぼりと表情を曇らせた。

「あ、いえ、だめとか、全然ないですから、ほんと」

 雪ちゃんでいいです、むしろそれがいいです、と慌てて続けてしまった。そもそも好きに呼んで良いと言ったのは雪男の方なのだから、文句を付けていいはずもない。雪男の言葉に「ほんと? 良かったぁ」と彼女は安心したように笑った。その表情を見ることができるなら、雪ちゃんという呼称も悪くないのかもしれない。
 そう思っていれば、「お、なんだ、早速仲良くなってんじゃん」と戻ってきた燐が嬉しそうに言った。

「あ、うん! 雪ちゃんって呼んでいい? ってお話してたの」

 ね、雪ちゃん、と相づちを求められええ、と頷けば、隣に座った燐がぶは、と吹き出す。

「あはは、雪ちゃん! いいなそれ、可愛いじゃん。俺もそう呼ぼうか」
「お願いだから止めて……」

 本当にそれが燐の望みであるのなら受け入れるが、ただからかうためだけにそう呼ばれるのはあまり心地よくない。彼の声で遠慮なく「雪男」と呼ばれる、その響きが好きなのだ。さすがにそこまで言葉にはしなかったが、嫌そうに眉を顰めた雪男を見て満足したのか、あはは、と燐は声を上げて笑った。
 雪男といるときもよく笑うひとではあったけれど、しえみが遊びにきてくれているということが本当に嬉しいのだろう。その日の燐はいつも以上に楽しそうに笑っていた。彼女とはラボで知り合ったらしく、ふたりの会話もそれに関することが多い。かといって雪男がひとり弾かれるということもなく、どちらかといえば燐はしえみと雪男にたくさん会話をさせようとしているように見えた。彼の好きなひとだから雪男にも好きになってもらいたい、とそう言っていたことが関係しているのかもしれない。
 和装の彼女は始めの印象通りおっとりとしており、植物の好きな優しい女性だった。柔らかな口調に笑顔、ときおり鋭く燐を叱ったりすることもあり、良いひとだ、と彼が言うのもよく分かる。

「な、しえみ、これからも雪男と仲良くしてやってくれな」
「うん、もちろん! 雪ちゃん、これからもよろしくね?」

 これから、という単語が具体的にどれだけの期間を指すのかは分からなかったが、「ええ、こちらこそよろしくお願いします」と頷いておく。
 優しくて柔らかな少女。
 優しくて温かな燐には、彼女のような存在がきっと側にいるべきなのだろうな、となんとなく思った。そう、思ってしまった。




7へ・9へ
トップへ

2012.07.19