ヨンパチ。(その8)(2)


 会場内部に悪魔の気配はない。少なくとも、現時点ではそれらしきものは見あたらない。騎士團側からの根回しで、参加者として潜り込んだパーティーにおいて、三組のカップルはパートナー以外のメンバとは他人の振りをしながら視線だけで合図を交わす。

「出雲ちゃん、そないな顔してたら逆に怪しまれるで? ほら、もっとこう、にこぉって」
「あいにくと、あんたみたいに顔の筋肉が緩んでないのよ」

 必要なら笑うわ、と小声で会話をしながらも、志摩、神木ペアは周囲への注意を怠らない。飲み物を片手にパーティーの雰囲気を楽しんでいる様子を装いながら、人々の間を縫うように進んでは悪魔の気配を探っていた。悪魔の動向を探るのならばやはりチームメンバの杜山が一番秀でているが、その脚力を買われて偵察隊として先行することの多い志摩や、神に近い存在を召喚できる神木もそれなりに気配には敏感なほうだ。
 どうしていつもあんたとペアなのかしら、と不服そうな神木へ、「しゃあないよ」と志摩は苦笑を浮かべる。

「坊はあんま偵察とか向いとらんから杜山さんと一緒のほうがええやろうし、出雲ちゃん、あのツインズ引き離して間に入る?」
「ぜったい嫌」

 きっぱりと紡がれた拒否に「せやろ?」と志摩が笑った。

「まあ俺が相手で不安かもしれへんけど、ちょい我慢してな?」

 へらり、と笑ってそう言う志摩をいつものようにきつい視線で睨みあげたあと、だん、と男の右足を己の足で踏みつけた。尖ったヒール部分でなかっただけまだマシなのかもしれない、と痛みに呻くのを我慢していた志摩の耳に神木の声が届く。

「あたしは不満だって言ってんの」
 不安だなんて言った覚え、ないわ。


**  **


「こっちは今のところ……うん……うん、分かった」

 そっと耳に手を当ててそう呟いているのは、柔らかな緑色の着物の裾を揺らしている杜山だ。情報収集係かつ司令塔として別室に待機している三輪と、トランシーバで連絡を取り合いながらの任務である。通話を終えた彼女はそばに控えていたパートナーに、「まだどこもおかしなところはないみたい」とそっと報告した。

「何か大きなもんがおったら引っかかりそうなもんやけどな」
「いないならいないでその方がいいんだけどね」

 そもそも今回は悪魔の正体どころか、存在すら不確かな状態である。ただ騎士團側が『何かおかしい』と判断したのなら、それに至る根拠が多少なりともあるはずだ。それがベテラン祓魔師の勘であったとしても、悪魔は理屈や理論の通じる相手ではないため調査に出るに足る理由にはなる。

「それでね、会場のなかには変化ないし、ここは一組いれば大丈夫じゃないかって三輪くんが」
「ああ、せやな。さほど広い場所でもあらへんし、一応他も見て回っとくか」
「うん、燐と雪ちゃんとこが残るって。で、出雲ちゃんたちには上を回ってもらうから」
「俺らは下っちゅうわけやな。分かった」

 行くで、と背を見せて歩きはじめる勝呂だったが、彼の歩くペースがこちらに合わせてずいぶんとゆっくりであることに気づいた杜山は、ひとりでこっそり笑みを浮かべていた。

**  **


 くるり、とあたりを見回してみれば、仲間たちがそれぞれフロアから出ていく背中が見えた。口を開くと男だとばれてしまうため、燐はしゃべることができない設定になっている。通信機器を装備してうっかり声を出してしまわないように、燐は今誰とも連絡を取り合っていない。唯一コミュニケーションを取れるパートナーは今、パーティー参加者のひとりと思われる男と話をしていた。

(揃って出てくってことは、子猫丸から指示でもあったのかな)

 もしこちらにもそういった指示があるなら雪男が動くはずだ。彼が何のリアクションも取っていないため、まだ燐たちはここにいても大丈夫だということ。むしろこのフロアを任された、と考えたほうがいいだろう。
 それならば一層神経を澄ませておかねば、と思いながら再び周囲を見回した。彼が(見た目は完璧に「彼女」であるが)首を巡らせるたびに艶やかな黒髪が宙を舞う。

「何か、お困りですか?」

 そんな燐へ、ひとりの男が声をかけた。そちらへ視線を向ければ、見覚えのある顔がそこにある。仲間以外でこの場に知り合いなどいるはずもなく、どうして見覚えがあるのだろう、と眉を寄せて悩むが、すぐには分からなかった。雪男と同じようにタキシードジャケットを纏っているため、ホテルのスタッフ、というわけではないのは確かだが。

「おひとりでどうされました? お連れの方はいらっしゃらないのですか?」

 確かにこういうパーティーに女ひとりで参加しているものは少なそうだ。それこそ、企業家だとかそれなりに社会的地位のある女性ならば参加していてもおかしくないだろうが、そういったひとたちはきっとエスコートしてくれる男を連れているだろう。連れがいますので、と言いたいのだが、声を出すことは禁じられている。困ったように笑って喉に手をあて、燐はふるり、と首を横に振った。お構いなく、と口の動きだけで意志を伝えようとする。

(……あ。まずい)

 ぱくぱく、と開閉させる唇には出雲の手によって口紅とグロスが塗られていた。舐めるな、擦るな、と命じられているため、派手に崩れてはいないと思う。だから、だろうか。男の視線が己の唇に注がれるのを燐は感じてしまった。わずかに男の気配に物騒な色が混ざる。獲物(この場合は女として認識されている燐自身である)を前にした捕食者の顔だ。
 男の自分に対して馬鹿だなぁという思いが半分、女の化粧って怖いという気持ちが半分。己が悪魔だから引き寄せてしまうのだろうか、という懸念がほんの少しばかり。悪魔はひとを誘惑し堕落させる力を持つものが多い。そんな気配が自分にも備わっているのかもしれない、と落ち込みかけたところで、「申し訳ありません」と背後から割って入ってくる声。

「あいにくと妻は喉を傷めておりまして」
 お聞き苦しい声ですのであまりしゃべらぬように申し付けております。

 そう言いながらす、とふたりの間に入ってきたのは、パートナーである双子の弟だった。着やせするため一見ではあまり気づかれないが、がっしりとした身体で男の視線から燐を庇うように立つ。まったくしゃべることができない、という設定では無理があるだろうから、と雪男が言ったような事情にしたんだったっけ、と思いながら、燐もまた申し訳なさそうな顔を作って深々と頭を下げた。

「本来ならこのような場に連れてくるべきではなかったのですが」

 ちらり、と燐へ視線を向けて言う雪男の腕にそっと両手を乗せ、ゆるり、と首を振る。

「どうしても、と聞かなくて」

 お恥ずかしいかぎりです、とにっこりと、非の打ちどころのない笑顔を向けて告げる雪男へ、そうですね、と言葉を返せるものなどいないだろう。煌びやかな美形ではなく印象には残りづらいが、双子の弟はそれなりに整った顔立ちをしている。落ち着いた雰囲気もあるため、彼が全力で営業スマイルを繰り出せば相手が男でも女でも大抵は矛先を収めるものだ。(実際には少ししょげた顔をした燐がそばにいることも十二分に効果を出しているのだが、彼自身はそのことに気づいていない。)
 突然現れた雪男の存在に多少驚きを見せたものの、すぐに態度を取り繕った男は、「このパーティーには素敵な女性も多くいますから」と燐を見て口を開いた。

「あなたのような素敵な方をおひとりで行かせるのも不安だったのでしょう」

 奥様のお気持ちもお察しください、と続けられ、雪男はどうでしょうね、と苦笑を浮かべる。そこからは名刺(もちろん祓魔師などとは書かれていない表向きの名刺だ)を取り出し、「申し遅れました、」と雪男が自己紹介を始め、燐には興味の薄い話題へと移行していく。彼らの会話から、どうやら声をかけてきた男がパーティーの主催者であったことが判明した。どうりで顔に覚えがあったわけだ。そもそも一番のターゲットである相手だったが、主催だけあり常に周囲にひとがいたため容易には近づけそうもないと諦めていた。きっと直接会話ができる機会ができて、雪男は内心ほくそ笑んでいるだろう。これはあとで少し燐も褒めてもらえるかもしれない。(何をした、というわけでもないけれど。)
 そんなことを考えながら弟の斜め後ろに控え、ふんわりと笑みを浮かべて男たちの会話に耳を澄ます。当然全神経を主催である男に注いでいるが、やはりそれらしい悪魔の気配は感じられなかった。今現在彼に何かが憑りついている、というわけではなさそうだけれど。
 少しだけ考え、まだ弟たちの会話が終わらなさそうであったため、燐はその青い目をわずかに細めた。まるで彼自身が生み出すことができる炎を閉じ込めたかのような、インディゴブルーがゆぅらりと揺れる。青という色のイメージからは少し離れた儚さ、危うさ、妖しさを秘めた視線に気がついたのか、雪男と話をしていた男がちらり、と燐のほうへと視線を向けた。控えめに口元を緩めてみせれば男が軽く顎を引いたのが分かる。雪男からの言葉に答えるべくすぐに視線は外されたが、それだけで十分だった。
 他にも挨拶に回らねば、と言う男の背を見送ったあと、まるで子供のいたずらを咎めるかのような目で弟に睨まれる。けれども文句は言われなかったため、仕方ないと許容したのだろう。どうだったの、と言葉なく尋ねられそっと雪男の手を取る。五本の指を開かせた手のひらの上に、燐は三本の指を重ねた。

「八割黒、ね」

 正確に燐の言いたいことを読み取ってくれた弟へこくりと頷いて答える。
 先ほど雪男と話をしている男を見つめたとき、燐はわずかに己のなかの炎の力を増幅させたのだ。具体的にどうなっている、どうしている、と言葉で表すことはできない。強いていえば炎を生み出す直前の感覚に似ている。瞳の奥に炎を灯らせて相手を威圧している、と説明すれば分かりやすいかもしれない。要するに、青焔魔の炎を以てガンを飛ばしているのだ。
 低級な悪魔であればそれだけで逃げ去るものもいるし、逆に力のあるものならば炎に惹かれて集まってくることもある。悪魔たちにとって魔神の炎は畏怖すべき力でもあり、また喉から手がでるほどに欲しい魅力的な力でもあるのだ。
 どんな悪魔であれ、魔神の力をそばで覚えて何も感じないはずはない。たとえ今は悪魔がそこにおらずとも、その影響が濃く残っている人間でさえ燐には(そしてその炎を得た雪男にも)必ず意識を向けてくる。余計な敵まで惹きつけてしまいかねないため、偵察任務ではあまり役に立たない方法だと思っていたが、確認作業にはそれなりに有効らしい。
 パーティーの主催者は、青焔魔の炎をこめた燐の視線に反応をしてしまった。偶然、ということも考えられなくはないため、あの男が何らかの悪魔と関わっている(彼が意図してのことかは分からないが)のは、八割程度の確率。
 これが知識も何もなく、ただ我武者羅に進んでいた学生時代の燐の言葉であったならきっと弟は聞く耳も持たなかっただろう。ここまで青い炎を操ってともに戦ってきたからこそ、その間ふたりともが成長を遂げていると知っているからこそ、雪男は燐の判断を全面的に信じた。
 弟が三輪へ報告するのを待つ間も燐の視線は主催者を追いかけている。妙に意識されては困るため、今はできるだけ悪魔の気配を抑えこみ大人しく視界に収めるだけに留めていた。

「中級悪魔が他のフロアに現れたらしい」
「ッ!?」

 そうして警戒していた燐の耳に雪男がそっと囁きを落とす。驚いて見上げる前に腕に触れられ、大きな仕草は控えたほうが良かったのだと思い出した。今みんなが向かってる、と弟は続けた。

「僕たちは引き続きここを担当する」

 その言葉に燐は小さく頷いて応える。仲間たちならば大丈夫だ。きっとうまく祓魔を終えてくれるだろう。最悪どうにもならないにしても、今の自分たちにはまとめてくれる三輪がいる。彼の指示に従えば間違いはないはずだ。


**  **


 パーティーが開かれている会場は四階の宴会場である。このホテルにはまだいくつかの宴会場があり、客室は五階以上にあるそうだ。そちらは志摩と神木のペアが回るということなので、勝呂と杜山は三階以下を確認して回ることにする。十三階まである客室階とは異なり宴会場や会議室、レストランなどの施設が集まるためひとの出入りは激しい。しかし逆にあちこち歩き回っていても怪しまれないため、本来なら宿泊客しか立ち入らない上を調べるよりは気が楽かもしれない。

「私、やっぱり今からでも三輪くんのところへ戻ったほうがいいのかな?」

 パーティーの参加者を装うために纏った衣装が窮屈で、喉元を緩めたくなるのを堪えながら歩いていたところで、不意に杜山が小さくそう呟いた。もともと前線に立って戦うタイプではなく、敵の動向を探ったり怪我人を治療したりと、補佐的な役割を得意とする彼女だ。このホテルはそこそこに広いため、彼女の使い魔の力を使って悪魔の動きを探ったほうがいいのでは、と言いたいのだろう。
 せやからそれは猫も言うとったやろ、と勝呂は呆れたように言った。

「そうなると杜山は動けへんことになる。広い上に敵の数も分からんのや、できるだけ動きまわっとる駒は多いほうがええ。杜山が残るとなると、俺らがどう動くかも全部お前が指示せなあかんのやぞ?」

 それができるのか、と暗に含ませた意味に、彼女はふるふると力なく首を横に振る。「ごめんね、私が三輪くんとか雪ちゃんみたいに、」と言いかけた彼女の言葉を遮り、「あんな、杜山」と勝呂は今度こそ大きなため息をついた。

「ひとにはできること、でけへんこと、得意なこと、苦手なこと、いろいろあるんは当たり前やろ。そんなん言い始めたら、お前おらんとろくに偵察もできん俺はどないなるねん。一番役立たずやないか」

 勝呂だって悪魔の気配が分からないわけではない、ただ他のメンバに比べるとどうしても捜索の能力が高いとは言えないレベルである。だからこそ今回は彼女と行動をともにしているのだ、と勝呂は理解していた。その言葉に杜山は再びふるふると首を横に振る。この仕草は勝呂が役立たずだ、と言った言葉を否定してくれているのだろう。
 人間も悪魔も、有する能力には限界がある。それこそ神でないかぎりは。あの双子の悪魔だってそうだ。彼らが本気になって戦ったところは見たことがないし、おそらく相当の強さを誇ることは分かっているが、それでもふたりにはできないことだってたくさんある。それを補うために勝呂が、杜山が、ほかの仲間たちがいるのだ。

「……うん、ごめん、馬鹿なこと言った」

 ぺしん、と小さな手で己の両手を叩く。そうしてすぐに思考を切り替えることができる強さは、きっと祓魔師になる過程で彼女が得たものだろう。よし、と一つ頷いて栗色の頭を軽く撫でる。謝意を込めて向けられた笑顔に照れを覚え、思わず視線を逸らせるとくすくすと笑う気配がした。
 彼女が得意とする広範囲の悪魔探索はかなりの集中力を必要とし、術者は展開中の身動きを封じられてしまう。しかし、こうして動きながらでもできることはあるものだ。呼び出した使い魔を肩に乗せ、小さな友達の力を借りて杜山は周辺に悪魔が潜んでいないか探る。そういった術を持たない勝呂は目と勘によって探るほかない。
 すれ違う人々に注意を払いながら歩いているうちに、ふと人気の少ない廊下へと入り込んだ。宴会場の出入り口には面しておらず、どうやら着替えなどを行う控え室へ続いているらしい。突き当たりまで進んでみるも左の壁にある扉はぴったりと閉じられている。とりあえず戻って下の階へ向かおうと振り返ったところで、向かいから男がひとり、歩いてくるのが見えた。勝呂と同じようにスーツ姿の彼はこの先の控え室にでも用があるのかもしれない。
 そう思いながらすれ違おうとしたところで、彼女の、あるいは彼女の友達の琴線に触れる何かがあったらしい。顔を上げて睨みつけてくる杜山に気づいた男は、大きく顔を歪めたあと細い彼女の身体を突き飛ばして奥へと逃げていこうとした。

「ニーちゃん!」

 よろけながらも叫んだ杜山の身体をとっさに支え、懐から数珠を取り出す。さすがにホテル内で発砲はできないため戦闘はできるかぎり詠唱で、と打ち合わせをしてあった。
 杜山の声に従って緑男から伸びた枝が、男の腕に絡まり付く。くそ、と男が吐き捨てたところでようやく本性が表に現れ、勝呂の目にもはっきりと悪魔の姿が見えた。ひとの頭ほどの大きさの黒い影、もやもやとした煙はやがて鳥らしき形を持って操っているのだろう人間の肩へと足をおろす。

「悪魔の寄生、及び宿主の生存を確認。脈拍呼吸異常なし、救出可能」

 男の腕を捕らえる木の枝から、杜山はそれだけのことを読みとって伝えてきた。彼女が助けられると言えば絶対だ、まずは悪魔に操られている人間の保護が先決、そのためには肩にとまっている悪魔を引き離さなければならない。
 黒い影のような鳥、可能性として高いのは氣の眷属、腐の眷属。詠唱騎士は悪魔の致死節を唱えて祓魔するという方法を取るが、致死節以外にも有用な呪はいくらでもある。悪魔の動きを鈍らせるもの、逆に活性化させるもの、傷つけたくないものを守るためのもの。詠唱騎士を極めたといっても過言ではないほど各宗教の聖典に精通している三輪ならば、きっと致死節どころか属性すら分からない悪魔相手でも使える手を十も二十も持っているだろう。しかし詠唱を補助として用いる勝呂では、幼なじみほどの詠唱バリエーションを持っていないのが現実だ。先ほどから口内でいくつかの呪の冒頭を呟いているが、効いているようには見えなかった。
 呪文を探す、敵の正体を知るにはもう少し時間がかかる。それならば、と取り出したものは聖水ビンだ。杜山が使役する緑男も属性としては悪魔であるため、小さな戦士にかからないように気をつけなければならないだろう。

「絨毯水浸し、っちゅーんは破損に入るんやろか」

 任務に当たる前に器物破損だけはしないように、と三輪から念を押されていたことを思いだして呟けば、「元に戻せるならOK、だって」とインカムをつけて交信している杜山が司令塔の言葉を使えてくれた。当然、こちらが交戦中であることを彼もまた把握しているはずだ。
 濡れた絨毯を放置していて元に戻るかどうかは分からない、廊下の絨毯をまるごと交換となればいくら請求されるやら。そう思いながら間合いをはかり、杜山のアシストを得て対峙する人間へと聖水を振りかける。低級の悪魔ならばこれだけで祓魔することもできるのだが、さすがにそうはいかなかったようだ。

「ッ」

 小さく息を飲んだ被寄生者がバックステップで勝呂たちから距離を取ろうとする。しかし彼の腕にはまだ木の枝が絡まっており、自由には動けない、と思った瞬間、男が大きく腕を振り払って緑男の枝から逃れ出た。それだけあちらの悪魔の力が強かったということなのか。
 そう思い、追いかけて足を踏み出しかけたところで、「敵眷属判明、火の眷属!」と杜山が声を上げた。
 敵の動向や探り得た情報を伝える際、彼女は人間味をそぎ落とした機械のような言い方をする。その理由は普段の口調で伝えようとすると余計な言葉が混ざってしまい、正確に言えないことがあるらしいのだ。端的に、事実だけを口にしているうちに今のような言い方を覚えたらしい。志摩曰く「杜山ナビ」は、三輪の指示と同じほどチーム内で重宝されているものだった。(が、ナビとはいえ彼女は地図についてはさっぱりであるようで、「道に迷ったらしえみには聞くな、悪化するぞ」と根っからの楽天家である燐ですら無表情で忠告してきたほどだった。)
 勝呂自身、敵が火を扱うところを見てはいない。しかし杜山が言うのだ、間違いはないだろう。

「『はじめに神は天と地とを創造された』」

 火の眷属である悪魔に有用な詠唱を試していく。膨大にある呪文のなかから眷属だけでも絞れたらこちらのものだ。

「ぐぅ、ぁあああっ!」

 完全に敵の正体が分かるまで、致死節は判明しない。だから人間の口から上がった声が断末魔の叫びなのか、あるいは苦痛による呻きなのかは咄嗟に判断ができなかった。けれど効果があることだけは確かで、今だ、と思ったと同時に「ニーちゃん!」と杜山の命が飛んだ。祓魔師であるのならば戦闘中に行わなければならないこと、それぞれの役割、手順を当然理解しているものだ。だから勝呂の要請がなくとも彼女が動くのは当たり前ではあるのだが、そのタイミングが絶妙で、やはり仲間だなとそう思った。
 緑男から伸びた枝が再び被寄生者へ絡まる。今度は腕などではなく、胴体を絡めるようにぐうるりと。
 勝呂の唱える呪文のせいか男はひどくもがいているが、苦しんでいるのは彼ではない、彼にとりついた悪魔だ。その悪魔の力を弱めている今が男を取り戻すチャンスとなる。影の鳥が離れた瞬間をついて緑男の枝が被寄生者の身体をこちらへと引き寄せた。そのときにはすでに杜山は榊といった魔を祓う力をもつ植物を手にしており、男の身体を清めて再び寄生されぬように手を打つ。
 第一の目的は達成され、唱える呪文での確かな手応えを得た勝呂は、第二の目的もすぐに遂げられるだろう、と確信した。

「『地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう!』」

 唱えたものがこの悪魔に対する致死節だったのか、単純に力を弱めるためだけのものを重ねられて耐えきれなかっただけなのかは分からない。しかし悪魔を滅することができたのは確かで、眷属も判明した。それらは三輪を通してほかの仲間たちへ伝わるだろう。
 いるかどうか分からない悪魔の調査のために潜り込んだ場所であったが、これでこちら側に敵意を持つものがいると確定した。ならばその本体を暴いて潰さなければならない。そこまでが今回の任務だ。
 さて、次はどう動くべきか。その相談をしようと背後を振り返り、勝呂は咄嗟に紡ぐべき言葉を失う。

「ハーブや退魔の薬を練って作ったものです、気付けにもなりますからどうぞ」

 わずかに意識を取り戻していた男へそういって杜山は手作りのクッキーらしきものを手渡していた。まだ頭はぼんやりとしているのだろう、正面には優しげな笑みを浮かべた女性、手渡されたクッキー、食べてください、と彼女が笑う。
 きっとその言葉に逆らおう、という感情は彼の中に起こらなかったに違いない。

「ッ、ぐ、っ!?」

 一口かじったと同時に目を見開き口を押さえ、そうしてそのまま再び倒れた男を見下ろし杜山は慌てているが、勝呂にはその反応の意味がよく理解できていた。

「……明らかにトドメやったな、今の」

 味はともかく、身体に良いものを接種する(接種させる)という方法は、体内から悪魔に憑りつかれ難くするという目的に関してはとても有効であるため間違った対処ではない、とはのちに乾いた笑いを浮かべた三輪が語った言葉である。


**  **


 神木出雲という女性は、とても気高く、強く、美しい女性である。何者が相手であっても屈さない、そして恐れない。ひとりで大丈夫だ、と周囲からの手を拒み続けてきた彼女は、未だに仲間たちとの交流をどこか怖がっている節がある。その恐怖を一緒に克服しよう、とそばで支えているものもいれば、好きにせぇ、と突き放しながら見守るもの、出雲は出雲だろ、と彼女をありのまま受け入れるもの、様々だが自分は一体どの部類に入るだろうか。
 先をかけて行く神木の背を追いかけながら、志摩はぼんやりと考えていた。もともと先行隊として適地に潜入したり、陽動隊として囮をこなしたりすることの多い彼は、脚力には自信がある。きっと今本気を出して走ればすぐに彼女に追いつけるだろう。それをしないのはなぜか。

「……前しか見えてへん、っちゅーことか、俺がおるんを知っててやってるんか」

 努力家な彼女は、祓魔塾においてもとても優秀な成績を収めていたものだ。他人との連携となると少し苦手であるようだったが、それでも祓魔師として任務についていれば自ずとチームプレイを理解するようになる。いくら少人数とはいえ、ひとりで突っ走ってどうにかなるような、簡単な悪魔ばかりではないのだ。現に、影の鳥を追いかける神木を狙って、やや小振りな、それでも二枚の羽を持っているような形の影がわいて出てきている。本来ならば背後からのそういった攻撃も想定した上で行動しなければ祓魔師としてやっていけないのだけれど。

「ほいよっと。錫杖で十分な敵で良かったわ」

 逃げた鳥しか見ていない神木の背中には志摩がいる。だからこそきっと、彼女はあえて黒い影だけを見て追いかけているのだ。

「猫さん、俺らめっちゃ走りまわっとるけど大丈夫なん? あとでホテル側から苦情きたりせぇへん?」

 シャン、と遊環の重なる涼やかな音を響かせながら通信器へ問いかけると、小さなノイズのあと、どうとでもします、と頼もしい答えが返ってきた。

『そんな呑気なことゆうとらんと、早う神木さんを、』

 鼓膜へ伝わる言葉へ適当に返事をしていたところで、長い廊下にぽつん、と赤い何かが落ちていることに気がついた。すぐにそれとわからなかったのは廊下の絨毯も赤いからだ。
 そばにももう一つぽつん、と転がっているそれは赤いエナメルのハイヒール。神木が履いていたものだ。周囲の壁や廊下には変化が見られないためここで戦闘を行った、その結果脱げたというわけではないだろう。
 くすり、と笑ってその忘れ物を回収しておく。右手に錫杖、左手に赤い靴を持ったまま歩を進めてすぐ、エレベータホールのイスに腰掛けた神木を発見した。悪魔は? と問いかけるような無粋なことはしない。彼女がこうして腰を落ち着けているのだ、祓ったと考えるのが当然だろう。
 その旨を三輪に伝えて、志摩は彼女のそばまで歩み寄る。

「うちのお姫ぃさんはほんまおてんばやな?」

 落とし物やで、と赤い靴を掲げてみせれば、「走れるわけないでしょ、そんなもの履いて」と予想通りの答えが返ってきた。普段はあまり表に出すことはないが、かわいい小物が好きで、おしゃれだって人並みに気を使っているが、仕事の邪魔となれば戸惑いなく靴を脱ぎ、足の裏を汚すことを厭わない。そのくせ、「ストッキング、伝線してたらどうしよう」と気にしている姿にギャップを覚え、思わず笑いがこぼれてしまった。本当に気高くて強くて美しい、魅力的な女性だ。
 聖水で濡らしたハンカチで神木が足の裏を拭うのを待ち、手にしたヒールを差し出す。その姿を見上げてきた彼女は、目を細め、口元を緩めて言った。

「……履かせてくださる?」

 す、と前に伸ばされる足。祓魔師として戦闘を行える程度には筋肉があると知ってはいるが、柔らかなピンク色のドレスから伸びたそれはとても柔らかそうだ、とそう思った。
 腰掛けたままの神木の前に膝をついてしゃがみ、ストッキングに覆われた右足をそっと手に取る。

「仰せのままに、お姫さま」

 この右足の甲にキスを落とせば、彼女は一体どんな反応をするのだろうか。




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2014.06.03