柔らかな心臓・2


 任務指示書によれば、場所は某市山間部にある木造の廃校舎だという。車で少し走れば市街地へ行くことができるため、若いひとたちはみな山を下り、廃校になって久しいらしい。詳細な地図が添付されおり、その理由は現地集合だからのようだ。交通費の精算を考えれば、事前に支部に集まって向かったほうがいいと思うのだが、何か事情でもあるのだろうか。
 メフィストより直々に声をかけられた雪男は、おそらく本来任務に必要とされ集められた人員からは外れている。隊長を含め参加祓魔師名もリストアップされていたが、取り立ててつきあいのある人物はいないようだった。名前を知っている程度のものがひとりふたり。もちろん燐は除いて、だ。
 雪男の参加は極秘ではないということだったため、兄には事前に話をしてある。そうでなければ当日いろいろうるさそうだと思ったのだ。
 じゃあ一緒に行くか、という話にもなっていたのだが、前日の燐の任務が思ったより長引き、結局帰宅することが叶わなかった。一度家に戻るよりは遠征先のホテルから直接行ったほうが早い、ということで、現地で落ち合うことにする。

『こういうとき騎士は楽でいいな、身体と刀がありゃいいもん』

 電話口で燐は笑いながら言っていた。確かに、多くの装備品が必要な竜騎士や医工騎士だとそう簡単にはいかないかもしれない。けれどそもそも、立て続けに任務が割り振られることがあまり良くないことなのだ、と燐は気がついているのだろうか。命の危険のある仕事なのだ、疲労が残っているせいで満足に動けませんでした、では、己はおろか仲間まで危険に晒しかねない。
 この任務が終わったら少しゆっくり休ませなければ。
 そんなことを考えているうちに、ようやく集合場所である廃校が見えてきた。ほかの祓魔師たちとなんとなく鉢合わせたくなかったため、バスではなくタクシーを使っての到着だ。一応領収書はもらっておいたが、経費で落としてもらえるだろうか。
 使い手のいない建物は朽ちるのも早い。外観は何とか小さな木造校舎という風貌を保っているが、壁はひび割れガラスのない窓もあり、全体的に草が覆い茂っている。昇降口は施錠されていないとのことで、入ってすぐ右手側の一番手前、一年三組の教室で待つように、という指示であった。
 さすがに靴を脱ぐ必要はないだろう。そもそも上履きを持ってきていない。ぎし、と床板を軋ませながらおそるおそる歩く。下手に体重をかければ、簡単に踏み抜けてしまいそうだ。
 ひとの気配と話し声。雪男以外の参加者だろう。わざと集合時間ぎりぎりに着くようにしたため、おそらくは全員集まっているはずだ。そっと教室の入り口から覗き込めば、燐を含め七人の祓魔師がそれぞれ待機していた。残されたままのいすに腰を下ろしているもの、スマートフォンに目を落としているもの、親しい間柄なのか話に花を咲かせているもの。燐はといえば、集まった祓魔師たち(皆年若い、雪男たちと同年代か、あるいは下のものもいるだろう)から距離を取るように教室奥の出入り口付近に立っていた。
 ざっと一同を観察し、つくづく不思議な任務だとそう思う。普通、ここまで若い祓魔師ばかりを集めたりはしない。もう少し祓魔経験を持つベテランの域にいる人物がいてもいいはずだ。もちろんこれが候補生の実地訓練だとかそういう意味合いのものであれば分かるのだが、そのような連絡はまったく受けていなかった。
 もしかしてそのベテランの位置に雪男を置きたい、という意図でもあったのだろうか。冗談ではない、確かに祓魔師となる年齢が早かったため同年代のものたちに比べて経験は重ねているが、だからといって雪男以上に能力のある祓魔師など日本支部には多く在籍しているのだ。わざわざ二十歳にもなっていない学生をメンバに組み込む理由が分からない。
 やはり燐がここにいることが関係しているのだろうか。
 教室内に足を踏み入れれば、物音に気がついたメンバたちが一斉にこちらへ視線を向けた。目を細めてそれらを受け止め、お疲れさまです、と軽く頭を下げる。燐へ視線を向ければ、軽く手を挙げられた。その表情にどこか覇気がないように見える。
 どうしてそんな隅にひとりでいるのか。少し疑問に思いながらも燐の元へ向かおうとしたところで、「あの!」と近寄ってきた祓魔師に声をかけられた。雪男よりも頭一つ分ほど背の低い男の祓魔師だ。見覚えがある、ざっと全身を確認し、装備品からどうやら同じ竜騎士だと知った。訓練室で会っているのか、あるいは同じ任務についたことがあるのか。
 考えていれば、若者のほうから「銃訓練のとき何度が見てもらったことがあるんです」という答えをくれた。射撃訓練室に限らず、祓魔師たちが己の腕を磨く場所では、お互いに研磨しあうのも珍しくないことである。特に雪男などはまだ若く、また今はもう退いているが祓魔塾の講師をしていた期間もあるため、同年代の祓魔師たちからすれば声をかけやすいのかもしれない。

「いろいろとアドバイスありがとうございました。おかげでさまで最近ですけどようやく称号をもらえて。今回同じ任務につけるなんて、嬉しいです!」

 悪いひとではないとは思う。馴れ馴れしいというほどではなく、社交的。よろしくお願いします、と頭を下げる常識も身についている。むしろ十代でこういう態度が取れるのだから立派なほうだろう。大学で周囲にいる学生たちに比べると格段に「社会人」らしさがある。

「飛び入りの参加ですけど、こちらこそよろしくお願いします」

 そう返したところで、「あ、やっぱりそうですよね」と別方向から声があがった。視線を向ければ詠唱騎士らしき女性がいる。彼女は顔も名前も知っている、以前一度、同じ任務についたことがあったはずだ。

「参加リストに奥村さんの名前なかった気がして。お久しぶりです」

 そこからまた互いの近況などをやりとりしたが、会話をしながらも雪男はずっと双子の兄が気になっていた。やはり少し元気がないように思う。昨日の任務に赴く前はいつも通りであったはずなのだけれど、何かあったのだろうか。燐に限って体調が悪い、ということはないだろうが、連日の任務で疲労が溜まっているのかもしれない。
 顔見知りの祓魔師たちとの挨拶を終え、ようやく燐のそばへと足を向けることができた。飯ちゃんと食ったか、とまず食事の心配をされるのはいつものこと。もともと食べることにさほど興味を向けられない雪男は、ひとりでいると食事を抜くことも多い。今日はこの任務が控えていたため、昼食はしっかり取ってきた。

「……朝飯は?」

 尋ねられそっと視線を逸らせる。弟の反応から朝食を抜いたことを察した兄は、深いため息をついたあとすぺん、とその肩を叩いた。
 昨日、家には戻れそうにない、という連絡が燐からあった際、散々飯を食え、と注意されてはいたのだ。朝目が覚めて一応そのことを思い出したのだけれど、支部に提出しなければならない書類の作成、午後からの任務の準備、家の掃除など、もろもろすませていればいつの間にか時間が経っており、泣く泣く朝食を諦めブランチとしゃれ込んだわけである。

「何が『泣く泣く』だ、ばか。お前のことだから昼飯ちょっとたくさん食えばチャラ、とか思ったんだろ」

 さすがお兄さま、十九年つきあいのある弟のことをよく分かっていらっしゃる。口元をひきつらせた雪男を見上げ、燐はふはっ、と息を吐き出して笑った。ようやくいつもの兄らしい表情を見ることができた気がする。しょうがねぇなぁ、と兄貴風を吹かせるいつもの燐だ。
 彼はくるり、と教室内を見回し、「つーか、」と言葉を続けた。

「俺おとなしくしてるし、別に見張ってなくても大丈夫だぞ?」

 知り合いいるんだろ? と集まっているほかの祓魔師たちへ視線を向ける。
 そういえば今更ながらに気づいたが、親しくないひとたちの中でふたり揃って任務につくという状況は初めてかもしれない。燐とふたりだけで任務、あるいは兄弟ふたりともが顔見知りであるひとたちとの任務は何度もあった。そういうときはやはり普段の祓魔任務とは違って、少しばかり気が楽だ。仕事だというのに燐も楽しそうにしていることが多く、特にふたりだけで任務に赴く場合はテンションも高い。そんな燐を見ることが多かったからだろうか、今の彼の姿に違和感を覚えるのは。知らないひとたちの間にいる兄というものを、久し振りに見ている気がする。なんだか中学校以前の彼を見ているようだ。
 小さく息を吐き出し、「別に、」と雪男は口を開いた。

「見張るつもりでいるわけじゃないよ。挨拶はもう終わったし、そんなに親しいひとがいるわけでもないし」
 僕がどこにいようと僕の勝手だろ。

 少しばかり突き放すような言い方をしたのはわざとだ。学生の頃ならば、自分を下げるような言い方をする燐に腹を立て、感情のまま乱暴な言葉を吐き捨てていただろうが、今は違う。先ほどの言葉は燐なりの自衛なのだ。おそらく本人はそれと気がついていない。自分は大丈夫だから、とあまり大丈夫ではないくせに言葉にして自己暗示をかける、そういった弱さを燐は持っていた。
 弟の答えに彼は小さく「あっそ」とだけ返す。少しだけ緩んだ頬は嬉しそうでもあり、また寂しそうでもあった。雪男が好きで兄のそばにいるのだ、ときちんと伝わっただろうか。

 自制を覚えて経験を積んだ双子の兄は、まだ数年という祓魔歴の割にそれなりの腕を持つ戦士に成長していた。もともと身体能力は高く、戦闘センスもあるタイプなのだ。剣と炎の扱い方、そして戦況を的確に分析する力(あるいは上官の指示に耳を傾ける力)を得れば、当然のことだともいえる。雪男のほうも長年の努力の甲斐あってか、それなりの難易度の任務をあてがわれることも増えてきた。兄弟ふたりが参加する任務はすべてメフィスト経由で押し付けられるもので、つまりは若干厄介なものばかり。それぞれ分かれて参加する任務は、それらに比べると難易度は下がる。
 この任務は一体どちらに分類するべきだろう。自分たち兄弟が揃わなければならないほどのものなのだろうか。
 燐のほうもその疑問は抱いているようで、何かあんのかなぁ、と首を傾げている。

「僕への通達はフェレス卿直々だったからね」
「なおさら怪しい。嫌な予感しかしねぇ」

 きっぱりと言い切る兄の意見に雪男もまた全面的に同意した。
 指示書に討伐対象としてあげられていた悪魔は、土塊、ゴーレムではないかということだった。確かにここは山の中腹部にあたり、土も草も木もふんだんにある。あまり巨大な姿のゴーレムになられては、土を持って行かれた山が崩れてしまう恐れがあるだろう。そういう点では早急に対処が必要な案件だとは思った。
 しかし、ゴーレムといえば地の眷属のなかでも中の下にあたる悪魔であり、さほど手こずる相手でもない。もちろん個体差があるため、最初からそうと決めつけるのは危険ではあるが。

「結構人数多いけど、すげーでっけぇゴーレムとかだったらどうしよう」

 不安そうな燐の呟きに、雪男は教室内を見渡した。自分たちを含めて八人。ほとんどが若々しさの溢れる祓魔師だ。ひとりだけ、黒いフードを顔半ばまでかぶっているため、よく分からない人物がいる。なんだか、祓魔塾時代に潜入していた某くの一祓魔師の姿を思い出してしまい、注意が必要かもしれないと考えてしまう。

「結構新人さんが多いみたいだよ。僕らくらいのひとばっかりでしょ」

 雪男の指摘に燐もまた仲間たちへ視線を向け、まじかー、とため息を零した。

「え、何? 新人研修みたいな?」

 現在の暦は四月であり、確かに一般企業ではそういうことを行っていてもおかしくはない。しかし今まで祓魔任務において、そういった研修が執り行われたなど雪男は聞いたことがなかった。何のための候補生制度だというのか。

「でも昔はときどきあったって聞いたぞ。まあ昔っつっても、親父が勝手にやってたらしいけど」

 メフィストがゆってた、と燐は情報源を明かした。口は悪くとも面倒見の良い養父のことだ、「早く戦えるようになってもらわねぇと俺が困る」だとかなんだとか言って、本当にそれくらいはやっていたかもしれない。
 しかし、そうしてまとめて面倒を見てくれるような祓魔師が、今日本支部にいるだろうか。あるいは雪男と燐も少し(とは言い切れないが)遅い新人研修のメンバに組み込まれているということか。
 その推測に双子の兄弟は「まさかね」と顔を見合わせ、乾いた笑みを浮かべた。

「隊長来ねぇな」

 ちらりと腕時計(スマートフォンだけでは心許ないため雪男が無理矢理押しつけたものだ)へ視線を落とし燐が言う。集合時刻は午後三時、既に五分ほど過ぎている。

「そうだね、遅刻は珍しいかな」

 今回の任務をまとめる上官は、雪男も知る手騎士であった。生真面目というほどではないが、時間にルーズなタイプでもないはずだ。チームワークを重んじ、彼が指揮をとる作戦はなんとなく安心できるものが多い。彼については燐のほうも知っているらしく、いいひとだよな、と言っていた。場所が場所であるため、若干の遅れは仕方がないのだろうか。日没までまだ時間があることを考えれば、焦ることもないとは思うが。
 集まっているほかの祓魔師たちの間からも、遅いね、などという言葉が出始めた頃、ようやくかつかつかつ、と響く靴音が一同の耳に届いた。

「すまない、待たせてしまったね」

 そう謝罪を口にしながら姿を現した人物はしかし、みなが待っていたはずの祓魔師ではない。年は四十に達しているかいないかくらいだろうか。黒々とした髪をワックスで固め、祓魔コートの下も白いワイシャツにネクタイと、コートを脱げばごく普通の会社員のように見える出で立ちだ。装備品の少なさから考えて、おそらくは詠唱騎士。もしかしたら手騎士かもしれない。

「西田上一級祓魔師は急遽別任務へ召集されてね。代わりに私が来ることとなった。天野だ、階級は上一、詠唱騎士と医工騎士の称号を持っている」

 祓魔免許証を提示しながらそう言った男は、「何人かは自己紹介の必要はなかったな」と笑みを浮かべてみせる。「二日前に同じ任務でしたね」と笑った祓魔師がひとり。ほかにも顔見知りはいるようだ。あいにくと雪男は初めて顔を合わせる。
 燐はどうだろう、と視線を向け、思わず目を見張った。

「……兄さん?」

 仕事中、とくに自分たち以外の祓魔師と同じ任務についている場合、雪男はできるだけ燐と兄弟であることを表に出さないよう心がけている。公私混同を避けるためだ。それなのについ小声で呼びかけてしまうほどには、兄の顔色が真っ青だった。
 弟の声にわずかにこちらを向いた燐は、ふるり、と首を横に振る。なんでもない、と同じく小声で返してくるが、どう頑張っても言葉通りには受け取れない。
 天野と名乗った祓魔師が現れての変化だ、彼に何か関係があるのだろうか。しかし詳しく聞けるような雰囲気ではなく、ひとまず燐の様子に注意しながらこれから展開される作戦について耳を傾けた。

 この廃校は本来二棟の校舎があったらしい。一見一棟しか建物がなかったが、もう一棟は既に無惨にも倒壊してしまっているのだとか。今雪男たちのいる校舎の北、山側にその残骸がある。

「祓魔対象のゴーレムは厄介なことに、その残骸を徐々に己の身体として取り込んでいっているらしい」

 木造校舎といえど、鉄筋の入っている部分もあっただろうし、校舎内に残っていた壊れた机やロッカーなども混ざっているはずだ。純粋に土や木、自然物だけで身体を形成しているゴーレムに比べると耐久性が増している。祓魔するための火力も大きなものが必要となるだろう。ただ幸いなことに、件のゴーレムは今のところまだ知能を有するまでには至っていないという。

「具体的な被害はどういったものがあるのでしょうか」

 事前にデータで渡されていた資料をタブレットに表示させ、確認しながら雪男は尋ねた。襲われたひとがいるのかどうか、破壊された何かがあるのかどうか。祓魔対象の行動を把握するにもそういった情報を知っておきたいのだが、事前に渡されたデータに記載がない。顔を上げて視線を向ければ、天野はわずかに目を細め、「まだ被害はない」と答えた。

「……え?」
「しかし、被害が出るのも時間の問題だろうと私は考える。そもそも、被害が出てからでは遅いだろう。人間が襲われていないから動かないなど、祓魔師の行動としてはいかがなものだろうな、奥村上二級祓魔師?」

 言っていることはなるほど、確かにそのとおりなのかもしれない。雪男だって、警察のように被害がない限り動けない、と言うつもりはない。文脈を考えればそういうつもりで発言したわけではないことなど、普通は分かるだろう。天野はあえてそのように解釈して言葉を返したのだ。生意気な若者を言い負かしてやりたいのか、あるいは自分のほうが立場が上であることを示したいのか。何にしろ癪に障る人物であることは確かだ。
 もちろん、とにっこりと笑みを浮かべ、雪男は口を開く。

「我々の仕事は悪魔からの被害を未然に防いでこそ、です。すみません、では質問を変えます、ゴーレムの出現位置とその移動経路、移動パターンなどは判明してますか?」

 本来知りたかったことは今尋ねた内容のほうだ。笑顔の裏に押し込めた不快感と苛立ちを隣にいる兄は敏感に察しているようで、ぼそりと「顔が怖い」と呟いていた。
 被害が出てからでは遅い、確かにそのとおりだが、だからといってまだ何もしていないものを悪魔という理由だけで祓魔するのは違う、と雪男は思っている。第一にゴーレムは本来大人しい部類に入る悪魔である。仲間である緑男や海坊主なども人なつっこいタイプが多く、そんな彼らが祓魔対象にあがるというのは雪男の認識からすれば一大事だ。もちろんこうして任務という形をとっているのだから、今のうちに祓魔しておかなければ今後驚異になると判断されたのだろう。それならばその根拠があるはずなのだけれど、どうにもそのあたりがうまくこちらに伝わってこなかった。

(ちゃんと調査部が調べてるだろうから、大丈夫だとは思うけど。)

 そう考えるが、どうにも不安と不信感が拭えない。それはやはり、この隊長が現れた際の燐の表情の変化を見てしまったから、だろう。今は既に動揺を抑えているようだが、頬に走る緊張は任務の前だからという理由だけだろうか。
 作戦の説明を聞きながら燐の様子を伺っていたところで、不意に兄が顔を上げた。青い目を開き、ぴりりとした張りつめた表情をしている。ばっ、と勢いよく彼が視線を向けた窓の向こうには、本来は校庭であったのだろう空き地(現在は草が覆い茂り歩くのも一苦労な場所になっている)が広がっていた。
 ひとには感じ取りにくい何かの気配を感じたのか、尋ねる前に「雪男!」と名を呼ばれる。

「窓際、四隅!」

 端的すぎる指示を瞬時に理解し、そして実行できるのは双子の兄弟であるからというだけでは説明できないかもしれない。そもそも敵の属性が分からないことには、有効的な防御壁だって張ることはできないのだ。
 本来の祓魔対象がゴーレムであるということ、悪魔が現れるらしい場所が草の多い空き地であるということから、もっとも可能性が高いのは地の属性の悪魔だろう。そう検討をつけ、氣属性の術が組み込まれている防御壁弾を窓際の壁四隅に撃ち込んだ。乾いた銃声が四つ、響く。
 そうして教室を覆う防御壁が展開されると同時に刀を抜いた燐が炎をまとって壁を抑え込み、わずかに遅れて何かがごぅん、と音を立てて壁に弾き飛ばされた。燐の隣に立ち銃を構える。

「……そんなに強くはねぇ」

 でも、と言いよどんだ燐はこのとき既に、こちらへ襲いかかってきたものが何であるのか、見てしまっていたのだろう。雪男も表情には出さなかったが驚きは覚えていた。まさか、とまだ少しぎこちないながらもそれぞれの得物を構えている新人祓魔師の間から、声が零れる。

「緑男……?」
「そんな……緑男は人間に害を与えないはずじゃあ……!?」

 確かに、祓魔塾ではそういう風に習う悪魔である。その元であるゴーレムも含め、大人しい悪魔である、と。そして大部分の緑男が実際はそのとおりだ。脳内に、友人の使い魔である小さな緑男の姿が浮かび上がる。彼女がここにいれば、あの緑男たちに何が起こっているのか、知ることもできるのだろうか。
 そんなことを考えていたところで、「甘い!」と動揺する若者たちを切り捨てる、厳しい声が響いた。

「君たちは何を勘違いしている? たとえ大人しいと言われているものであっても、悪魔は悪魔。我々人間には理解できぬ思考と能力を持った存在だ、脅威にならないはずがない」
 見ろ、あの醜悪な様子を。

 促された祓魔師たちが、雪男と燐によって展開された防御壁へ体当たりをしてくる五匹の緑男たちへ、視線を向けた。
 刺々しい植物で全身を覆った姿、指の先から伸びる木の爪が鋭く尖っている。普段もっともよく目にする緑男たちの丸みを帯びた輪郭は欠片もなく、大きく開いた口の中には無数の牙があり、唾液なのだろうか、おぞましい色の粘液がだらり、と糸を引いている。しかし緑男たちをよりいっそう醜いものへ変えているのはその見た目ではなく、こちらに向けて放ってくる敵意悪意、殺意であろう。

「悪魔は物質界にとって不要な存在、すべからく滅さなければならない」

 まるでそれが自明の理であるかのように、確信に満ちた声音で男は告げる。その視線を、青い炎を体内に飼う悪魔に向けたまま。
 燐は天野の目に気がついているのだろう、その上でなお言い返すことなく防御壁を守っている。怒りを堪えている様子はなく、また悲しんでいるようでもない。無表情におしこめられた裏側に横たわるそれを、しかし雪男は気が付いてしまった。
 諦めだ。
 彼はすべてを諦めてしまっている。
 どうしてこの場で、悪魔の血を引く自分たちのいる場所で、天野はそんな意見を口にしたのか。誰がどのような思想を持とうとも自由だとは思っているが、それにしても今言うべきことであっただろうか。ぎり、と唇を噛んだ雪男の手に無意識のうちに力が籠もった。

「ゆき、」

 そんな弟の様子に、兄はこんなときばかり目ざとさを発揮する。子どもの頃のように呼ばれて燐を見れば、気遣わしげな視線で雪男を見ていた。ずきり、と心臓が痛む。天野の言葉に一番心を抉られているのは燐だ。怒りも悲しみも表に出せないほど、諦めることしかできないほど傷ついている。そんな兄に気遣われてどうするというのか。
 ちっ、と零した舌打ちに、燐はしょうがねぇなあ、というような顔をして笑っていた。
 そんな兄弟のやりとりに気がついているのか、いないのか、「さほど力はないようだな」と窓の外へ視線を向けながら天野口を開く。

「このレベルならば各個撃破も可能だろう。私がサポートに回るから心配はいらない。それぞれどの緑男をターゲットにするか決めたな?」

 その指示に祓魔師たちが慌てて、「じゃあ俺は奥の背が高い奴で」「私は手前の腕が長い子を担当します」と口にする。
 緑男たちがこうなってしまったには何らかの原因があるはずだ。捕らえてそれを調べるものだとばかり思っていたのだが、まさかそのまま祓魔をしてしまうだなんて。
 ちょっと待ってください、と雪男が声をあげるタイミングが分かっていたかのように、「奥村」と天野が名を呼んだ。兄弟のどちらを呼んだのかが分からず揃って顔を向ける。

「結界を解きなさい。みな、それが合図だ。一斉に構え」

 続けざまに指示を飛ばされ、兄弟は顔を見合わせた。ここで隊長に逆らえば、今後の作戦行動に影響を残しかねない。まだ本来祓魔すべき対象を見ることすらできていないのだ。眉間にしわを寄せ、唇を引き結ぶ。見下ろした先では燐もまた苦しそうな表情をしながら、それでもこくり、と彼は力強く頷いた。仕方がない、やるしかない。
 隊長である天野、燐と雪男を除いて残る祓魔師たちは六名。緑男たちは五匹。誰がどれを狙いとして定めているのかは聞き逃したが、おそらく漏れはないだろう。

「開けます」

 一言そう宣言をし、展開した壁を破壊するための弾を右上の隅に撃ち込んだ。解除弾は防御壁弾を撃ち込んだ箇所のうち、どこか一カ所に当てさえすれば壁を消すことができるものだ。もともとこの手の防御壁や結界は詠唱騎士のほうが得意であるのだが、もろもろの事情であまり詠唱騎士を同行させたくない任務において必要にかられ、竜騎士でもそれが作れるように研究を重ねた結果の術弾である。そういった術弾は以前から竜騎士に使用されてはいたが、雪男の研究と開発が加わってよりいっそう実用的になったものだ。
 壁が崩れる際、音は発生しない。そのためタイミングが分かりづらいかもしれない、と思ったが、燐が炎を収めてくれたため、ほかの祓魔師たちにもすぐに分かったようだった。開けた窓から飛び出る騎士がひとり、構えた銃の引き金を引く竜騎士がふたり。壁のある間から捕縛のための術を唱え、捕らえた緑男へ致死節を流し込む詠唱騎士と、呼び出した使い魔(犬と猿と鳥の三匹で、燐が小さく「ももたろう」と呟いていたのが聞こえてしまった)を向かわせている手騎士。臨戦態勢は解かないものの動かなかったのは天野隊長のほかに奥村兄弟と、フードを目深に被った男である。彼は一体何を思って武器を構えなかったのか、その必要がないと思ったのだろうか。
 そう思いながら視線を向ければ、「あーあ」とフードの男が小さく息をはいた。

「……弱いものイジメみたいやん」

 ぽそりと呟かれた声はとても小さく、一番近くにいた雪男にも本当に彼がそう言ったのか自信はなかった。しかし、確かに、と窓の外の光景を見やって雪男は思う。
 見た目や放たれる悪意がすさまじいだけで、結局緑男は緑男。戦う力などほとんどないに等しく、若い祓魔師たちの繰り出す攻撃に為す術もなく消滅させられていた。
 ははっ、と誰かが笑う声がする。

「なんだ、らくしょーじゃん」
 悪魔なんてこんなもんか。

 そのような言葉、多くの任務を経験するうちに決して吐けなくなるだろう。隊長からの注意が飛ぶかと思ったが、しかし雪男がちらりと伺った先にいた天野は、にんまりと満足そうに笑みを浮かべているだけだった。




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2016.07.20