溶けない感情・3


 最初は、と枕詞を置くことさえ、あまり意味はないのかもしれない。
 好きなだけだった。
 ただ、好きなだけなのだ。
 それだけなのに、恋しく思えば想うほど、大事に優しくされるほど、比例してどろどろと薄暗い感情が腹の奥底に沈殿していくようだ。
 嫉妬、だなんて。
 抱くこと自体が筋違いだというのに。
 そもそも、この両眼以外、何の取り柄もない、魅力もない貧相な子どもを、あのひとが本気で好きになってくれるはずなどないではないか。たとえ興味本位でしかなかったとしても、手を伸ばして触れてくれるだけで、抱きしめてキスをしてくれるだけで幸せなのだ。
 彼はレオナルドと会っているときは本当に優しくしてくれるし、大事にしてくれてもいる。つきあいのある女性たちだってあくまでも「ビジネス上」のこと。「恋人」という立場にいるのはレオナルドただひとり。その言葉を盲目的に信じてさえいれば、この幸せは続く。
 ある意味唯一となる存在にしてもらえているのだ。これ以上を望むだなんて、己の価値を理解しているのならできるわけがない。
 そんな思考を何度も脳内で繰り返す。自分自身に言い聞かせるように。ふつふつとわき起こる濁った感情を押し込めるために。
 ただ好きなだけなのだ、と彼への気持ちを反芻する。
 好きだ、という気持ちに未だ翳りは見えない。これが少しでも薄れる気配があればまだ良かったのかもしれない。気持ちが冷めてくれたのなら、氷のようにどろりと溶けて流れて消えてくれたのなら、固執することもないのかもしれない。そのことを残念だと思うよりも、可哀そうだな、と思ってしまう。こんな年下の男に心底惚れられて、どうあっても溶けない感情を向けられて、本当に彼は可哀そうなひとだ。
 恋人という関係になる前は、ただ想うだけで良かった。どうせ叶いはしないのだから、ひっそりと好きでいるだけで良かったはずなのに、一度その手の温もりを知ってしまえばもう、そのころには戻れないらしい。
 想うだけで幸せだったころに戻りたい。
 けれどそれすらももはやできない。
 誰を、恨めばいいのだろう。
 想うだけでは満足できなくなった強欲な己だろうか。きまぐれに触れてきた恋人だろうか。あるいはその恋人の温もりを知っているかもしれない女たちだろうか。
 ふ、と脳内に蘇る路地裏の光景。ただそこにいるだけで色気を漂わせる男と、嫣然と笑って彼に寄りかかる肉感的な女性。見ていることしかできない、自分自身。
 ああ腹立たしい、恨めしい。
 開いた唇からほろり、本音が零れた。

「……あのひとにキスされた女なんか……」



***     ***



 誰がどのような状況に追い込まれようと、くそったれな世界はめまぐるしく変わり続け、日々喧噪を生み出している。逞しく生きる人類や異界存在に支えられ、ヘルサレムズ・ロットは相変わらず絶好調だ。それはつまりいつもと変わらずあちこちで騒動が勃発しているということで、普通のひとたちには少しばかり手に余るような事案に対処するため、ライブラのメンバは今日もまた奔走していた。

「あー……」

 ぐったりとソファに背中を預ければ、そのまま意識がなくなってしまいそうだ。

「レオくん、仮眠室を使ったらどうですか?」

 心優しい半魚人の青年がそう言ってくれるが、その声も疲労がにじみ出ている。まる十五時間ほど緊張を強いられれば、鍛錬を積んだものでも疲れを覚えるものなのだ。現に青年の兄弟子などは長身をソファに横たえ、無言を貫いていた。口を開けば文句を連ねる男にしては珍しい光景だ。既に夢の中なのかもしれない。

「そーっすねー……このままだと、帰れそうもないですし」

 主に体力的な面で、自宅へたどり着くことは叶わないだろう。走り回りすぎてぱんぱんに腫れてしまっている両足に鞭を打ち、よろけながらも立ち上がる。

「ツェッドさんも、ゆっくり休んでくださいね」

 彼の自室はこの執務室の隣にあるのだ。水のはられた大きな水槽が青年のベッドである。可能であればいつかあの中で泳いでみたい、とこっそり思っていることは内緒だ。
 レオナルドの言葉に「はい。おやすみなさい」とどこまでも礼儀正しい挨拶が返ってきた。へらりと笑って執務室を後にし、ふらふらと覚束ない足取りで仮眠室へと向かう。
 今回の騒動で出ずっぱりだったのは、ザップ、ツェッド、レオナルドの三人だけだ。ほかのメンバがそれぞれ別の案件を抱えて手が放せなかったため、三人で対処せざるを得なかった、というのもある。どうにかできないものではなかったけれど、如何せん時間と労力のかかる仕事であった。
 よろよろとたどり着いた仮眠室のベッドへもぐり込み、レオナルドは身体を丸めて大きく息を吐き出す。ずっしりとした疲労感が、全身を押し潰す勢いで伸し掛かってくるようだ。ずぶずぶとベッドの中へ沈み込んでしまいそうである。何も考えず、このまま眠ってしまいたい。
 そう思うときに限って、ちらりと脳内を過る恋人の顔。
 ここ最近、事務所でスティーブンを見ていない。メールや電話は時折交わしてはいたけれど(それも仕事の邪魔はできないため、かかってくるのを待つばかりだ)、顔を見たのはどれくらい前だろうか。厄介ごとを抱えているのかもしれないが、こちらに何の話も下りてこないためおそらくはスポンサー関連、あるいは情報収集で忙しいのだろう。
 それはつまり、女に甘い言葉を囁いている可能性がある、ということで。
 八割ほど睡魔に乗っ取られた脳内で、どろり、と濁った感情がわき起こる。
 そうと決まったわけではない。これはレオナルドの単なる想像で、実際にはまるで違う仕事であるかもしれない。理性ではそう分かっているのだけれど、一度負の方向へ傾いた思考はなかなか這い上がってはこれないものらしい。身体も脳も(そして心も、かもしれない)限界まで疲れている、というのもきっと良くないのだろう。堰を切った黒い感情が徐々に膨れ上がり、レオナルドの体内でぐるぐると渦巻き始める。
 今頃、あのひとは顔も名前も知らない女の腰を抱いているのだろうか。
 その耳へ低くエロティックな声で愛を囁いているのだろうか。
 優しいけれど、どこか獰猛さを見せる瞳で見つめているのだろうか。
 ああもう本当に。

(――みんな、消えてしまえばいいのに)


**  **


 ベッドに倒れ込む間際、ぎりぎり残っていた判断力で、携帯端末を枕元に置いていたらしい。そこから響く音はアラームではなく、着信だ。

「ぅあい、れおなるど……」

 とにかく電話に出なければ、と相手の名前も確認せずに耳に当てれば、『少年? 寝起きか?』と笑いを含んだ声が鼓膜を震わせる。スティーブンだ。

『昼まで異界交配種の肉食兎殲滅にザップたちと出てたんだったな。すまない、起こしてしまったか』
「ん、にゃ、だいじょーぶ、です。戻ってきてずっと寝てたんで」

 言葉を探して返すうちに頭がはっきりとしてきた。端末を耳に当てているため時間が分からないが、身体の疲労は大方抜けている。そこそこの時間眠っていたようだ。

『そうか。じゃあ今は家なんだな』
「あ、いいえ、ライブラの仮眠室、使わせてもらってました」

 家まで戻る体力なかったんで、と正直に答えれば、『賢明な判断だな』と言ったあと彼はちょうどいい、と電話をかけてきた用件を口にした。
 見てもらいたいものがある、という。まだ出先ではあるが、もう少ししたら事務所に戻れるそうだ。仮眠室にいるのならそのまま待っていてもらいたい、と。
 そう頼まれ、もちろん断るはずがない。

『小一時間はかかるかもしれない、眠っていていいよ』

 それじゃあまたあとで、と切れた端末を握り、レオナルドはほぅ、と小さくため息をついた。恋人の声を聞くのが久しぶりだったからだろうか。あるいは仕事とはいえこれから会えるということを喜んでいるのか。無駄に心臓が高鳴っている。どきどきと震える胸元を押さえ込み、とりあえず仮眠室から事務所のほうへ移動しておくことにした。少しでも早くスティーブンの顔を見たかったのだ。眠るだけなら事務所のソファでもできる。
 足を踏み入れた事務所には当然のように誰の姿もなかった。夜八時半を回っている。既に皆帰宅しているのだろう。隣の部屋にツェッドならばいるかもしれないが、もし眠っているのだとすれば起こすのは忍びない。極力静かにしていよう、とブランケットにくるまりソファへ身を横たえた。
 酷使した身体は差し出された睡眠へ簡単に飛びつく。十分休んだと思っていたが、結局スティーブンが戻ってくるまでソファでも一眠りしてしまった。カタン、と扉の開く音で目覚めるくらいの眠りではあったが、我ながらよく寝るな、と少し感心を覚える。

「ああ、やっぱりこっちにいたか。寝るならベッドのほうがいいだろうに」

 もそもそと身体を起こし、くわ、とあくびを一つ。スティーブンの言葉の意味を考えられるほど頭は起きておらず、とりあえず「お帰りなさい」と目を擦りながらそう言った。テンポのずれた挨拶に男は小さく笑って「ただいま」と返す。
 見上げたその先にある恋人の姿。直接会うのはどれくらいぶりだろうか。ただ顔を見ることができた、それだけのことに喜びを覚え、ふにゃりと頬が緩んでしまう。けれど、ここで待っていたのは何も会いたかったからというわけではないとすぐに思い出した。
 見てもらいたいものがある、そうスティーブンは言っていた。いったい何を確認したら良いのだろうか。
 尋ねようとしたところで、「コーヒー入れるけど、飲むか?」と声をかけられた。寝起きでぼんやりしている間に、ジャケットを脱いだ男はサーバの置いてある場所へ足を向け、自分のカップを手に取っている。既にそこまで移動している人間に「自分が入れます」などと言ったところで意味はないだろう。頂きます、と返せば、コーヒーよりもカフェラテのほうが好みだと知られているため、ミルクをたっぷりと入れたものを手渡された。ほんのりと甘いそれに口をつけ、のどを温める。
 そうして無言のまま互いに二、三口ほどコーヒーを飲んだあと、「それで、」とようやくレオナルドは言葉を口に乗せることができた。

「僕に見てもらいたいものって何ですか? 血界の眷属絡みのものです?」

 わざわざ電話をしてくるほどのものだ、それなりに重要なことなのではないだろうか。首を傾げたレオナルドへ、男は小さく頭を振る。

「いや、血界の眷属に関するものじゃあない。……おそらくは、ね」

 そう言ってまた一口、コーヒーを啜った。どこか歯切れの悪い物言いだ。どう話そうか迷っているのだろうか。久しぶりに見た恋人の姿は、どこか疲れているような、そんな印象を受けた。抱えている仕事が厄介なものなのだろうか。だから事務所に顔を出すこともできず、恋人と会う時間もなかったということなのか。

「レオナルド」

 つらつらと考え込んでいる少年の名を、男が静かに口にする。

「君の眼から見て、今の僕はどう見える?」

 続けられた言葉はあまりにも予想外で、カップを両手で包んだまま思わずスティーブンを凝視してしまった。

「どう、とは……?」

 問いかけが漠然としすぎていて、何と答えたら良いのかが分からない。お疲れのようです、だとか、いつものようにかっこいいです、だとか。そういった返答を求められているのではないだろう。案の定、「そうだな、たとえば、」と男は笑えない言葉を口にする。

「魔術や呪術がかかっているようだ、とか」
「……何か、あったんですか?」

 何もないのにわざわざ義眼で確認してもらいたい、とは言わないだろう。心当たりでもあるのか、既に身体に異常が表れでもしているのか。
 いいから見てくれ、と促され、レオナルドはそっと瞼を開いた。途端に流れ込んでくる情報の多さに一瞬目眩を覚える。そのなかで必要そうなものだけを集中して捕らえ、さらに詳しく探るべく義眼へ意識を向けた。
 生体エネルギィ、とでもいえばいいのだろうか。生きているものが必ず発しているそれは、スピリチュアルな言い方をすればオーラと呼べるだろう。容姿や性格と同じように、ひとりひとり異なったものを纏っており、レオナルドは有事のときのためにライブラの主要メンバのオーラを義眼で確認し、把握していた。
 スティーブンのオーラは一言でいえば銀色だ。くすぶった灰色のようでもあるが、よくよく見ればきらきらと輝いている。冷たそうで、けれど思わず手を伸ばしたくなるような美しさを持った色だった。

「……特に、変わったところはないと、思います」

 オーラの色に変化はなく、また彼自身に術がかけられているような痕跡もない。それがどんな術なのかは分からなくても、レオナルドの眼は術式を捕らえてしまうのだ。いつぞやザップの股間にかけられた術だって、レオナルドには見えていた。どうなるのかは分からなかったけれど、彼のマグナムが大変なことになるのだろうな、と思ったものだ。
 けれど今義眼で見つめている男に変わった様子はない。
 レオナルドの返答に、「そうか」とスティーブンは深いため息をついた。
 マグを手にしたまま視線を逸らせ、床を見つめる彼へ、声をかけていいものかが分からない。しかし沈黙に耐えきれず、「あの、」とレオナルドは恐る恐る口を開いた。

「ほんとに、どうか、したんですか?」

 ここまで関わらせておいて、何の説明もないままというのも正直つらいものがある。しかもレオナルドは一応「恋人」でもあるのだ。様子のおかしい恋人を心配しないはずがない。
 スティーブンさん、と名前を呼べば、男は疲れたようにふるり、と一度頭を振った。

「最初に言っておく。既に幻界病棟で診察はしてもらっているし、知り合いの術師も何人か訪ねて見てもらってはいるんだ」

 頭の回転の早い男は、己に降りかかった出来事を客観的に捕らえ、原因を突き止めようといくつも手を打ってはいたのだ。

「結果はシロ。皆、口を揃て『異常なし』としか言わない」
 今の君と同じように、ね。




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2016.07.20