溶けない感情・4


 最初に覚えた違和感は携帯端末のメモリだった。それはクラウスやほかのライブラメンバとの連絡用ではなく、主に情報収集をする相手やスポンサー関連との連絡を取るための端末だ。そしてもう一つの違和感はPCのメール。こちらも、情報収集用に使っているアドレスのほうである。
 あったはずの名前がない。アドレスがない、そしてメールがない。
 ひたすら増えていくだけのアドレスや番号を管理するのはそこそこ労力が要り、これ以上連絡を取ることはないだろう、と思う相手であってもどこでどう繋がるか分からない以上、番号は残したままにしてある。スティーブンの指がデリートをタップする場合は、その相手が既に死亡しているときくらいなのだ。
 たとえばそれが、「既に用済み」フォルダの中の名前であればしばらくは気が付かなかったかもしれない。けれど、今週末あたりそろそろ連絡を入れようと思っていた相手の名前が端末の中に見つからず、スティーブンは首を傾げた。もちろん削除した覚えはない。
 よくよく確認してみれば、消えた名前は一つではなく、最初はハッキングを疑った。ライブラの副官であるスティーブンの持ち物に対し、物理的に手を出せるものはそう多くないがいないわけではない。同じように、ライブラに所属するシステム部の面々が作り上げたセキュリティをかいくぐってパソコンや携帯端末のデータをクラッシュさせることができるものだって、いないとは限らない。
 その形跡がないかどうか。対策としてどう手を打つべきか。バックアップはデータで残しながら、原始的にアウトプットしておいたほうが良いのかもしれない。
 今後の予防策を考えつつ、原因を探るよう依頼し、残ったデータを移動させた別の端末を用意した。
 これが一つ目の異常。
 二つ目は、以前より懇意にしている、とある公的機関に所属する男と会ったときのことだ。お互いの利害を考え、差し障りのない程度に情報をやり取りする。仕事相手というには砕けすぎており、かといって友人というほど親しい間柄でもない。けれどだからこそ、彼から得ることのできる話には一定以上の価値があった。
 ここ最近耳にした情報をやりとりし、ある程度の成果を見たところで「そういえば、」と口にしたのはスティーブンだった。

「ミス・ソフィーは、どこか別の土地に異動でもした?」

 名前の人物は以前少しだけ仲良くしていた女性である。彼の知り合いだと知ってからは距離を取るようにしたが、繋がりが切れているわけではない。今日所用でソフィーの勤め先に赴いたのだが、その際彼女の姿を見かけなかった。あそこへ行ったときにはたいてい挨拶をしていたのだけれど、と不思議に思ったのだ。
 スティーブンの問いかけに、相手の男は「いや?」と眉間にしわを寄せて首を傾げた。

「そんな話はとんと聞いてないな。つか、さっき見かけたけどな」

 そう、彼もまたソフィーと同じ場所に勤めている。その男が言うのだから、確かに彼女はあの建物にいたのだろう。スティーブンが訪れたそのとき、たまたま席を外していただけのこと。
 そう考えるのが普通だというのに、どうしてだか喉の奥に小骨がひっかかったような気持ち悪さを覚えた。


「そしてこれが決定打」

 黙ったまま話を聞くレオナルドへ、男は長い指を三本立てて言葉を続ける、「三つ目の違和感。」


「スティーブン、歩道にいる女性は君の知り合いか?」

 ライブラのリーダであり、スティーブンが唯一従う男、クラウスとともにギルベルトの運転する車に乗っていたときのことだ。牙狩り本部からの呼び出しで、「外」からやってきたものとホテルの一室で会った帰りだったように覚えている。まだ夕方と呼ぶには早い時間帯で、事務所に戻ったら腹が減るまで書類仕事を片づけようと考えていた。しかしこの先で事故でも起こったのか運悪く車は渋滞に巻き込まれ、戻るまでまだ時間がかかりそうである。

「女性?」

 クラウスにそう尋ねられ、軽く頭を下げて車の窓から歩道を見やる。クラウスの視線を追いかけてみたが、彼がどの女性のことを指して言っているのか分からなかった。

「君のことをずっと見ている。睨んでいるようにも見えるが」
「うん? どのあたりにいるんだい?」

 ざっと見える範囲で探してみるが、特にこちらへ視線を向けているものがいるようには見えない。しかしクラウスがそう言うのだから、いないわけではないのだろう。どういう女性? と特徴を尋ねてみれば、「ひどく鮮やかな髪の色をしている」と返ってきた。

「向かって右が赤、左が青い髪の毛だ。チェインと同じくらいの年頃だろう」

 歩行者用信号機のすぐ側に、と説明され、スティーブンは「ああ、」と息を一つ吐き出す。
 そういったヘアスタイルの女性に心当たりがある。顔もスタイルも人並み以上である彼女は、「髪の毛くらいは奇抜でいたいでしょう?」といつも必ず左右で違う色に髪を染めていた。

「知り合いといえばまあ、知り合い、だけれどね」

 スティーブンの感覚からすれば、知り合いだった、という表現のほうが近いかもしれない。彼女の名前もアドレスも、既に「用済み」のフォルダへ放り込まれて久しいのだから。

「用があれば向こうから連絡してくると思うよ」

 知らない相手ではないけれど、特にこちらからアクションを起こすつもりはない。そう口にすれば、クラウスは「そうか」とただ一言返事を寄越した。スティーブンの交友関係にまで口を出すような男ではない。単純に、ただ気になったから聞いてきただけのことなのだろう。
 けれど。
 クラウスに怪しまれないよう、もう一度窓の外へと視線を向ける。ようやくのろのろと車が動き出し、景色も少しだけ流れているが。
 赤と青のツートンカラーの髪の毛の女。
 クラウスの目には映っているというその女が、結局スティーブンには捕らえることができないままでいた。
 偶然、あるいはたまたま、見間違え、気のせい、その他何らかの事象が原因で、クラウスには見えてスティーブンには見えなかった。そういうこともあるのかもしれない。しかしどうにも引っかかりを覚える。そんな目立つ髪型の人物を見逃すものだろうか。

 思い起こされる出来事は、ソフィー嬢の件。ただたまたま会えなかっただけ、と素直に考えることができなかった。あれも、知り合いの男には見えていて、スティーブンには見えていなかった・・・・・・・・、と言い換えることができるのではないだろうか。
 そうしてここ最近の出来事を遡り、違和感の始まりを思い出す。
 携帯端末から消えてしまったアドレス、名前たち。あれもスティーブンには見えていなかった・・・・・・・・だけなのではないか。
 まさかそんなことは、と思いながら、以前の端末をギルベルトに確認してもらった。機械系に強い老人が一番適役だと判断したのだ。

「……僭越ながら。私にはヨランデ・マッカン嬢の名もマリア・アルトリオ嬢の名も、登録されているように思えますが」

 数々の違和感が一本に繋がる。
 ギルベルトの解答を得て、スティーブンはそのまま病院と呪術師のもとを訪れた。この類のことは放置しないほうが後々のためだと、人智を越えた存在を相手にしていると理解してしまうものなのである。そういった呪いを受けた具体的な心当たりはなかったが、恨みなど掃いて捨てるほど買っていることは自覚していた。
 しかし結果、どちらでも異常なしと下された。それならばそれで安心を覚える、とはいかないのがスティーブンの性格だ。むしろ、より一層懸念が強くなる。もしかしたら一般的な医師や呪術師には察せないほどの何かが、己の身に降りかかっているのではないか、と。
 おそらく無意識のうちに、一番最初にその可能性を考えていたのだ。だからこそ、こういった場合の確認手段として、最も適切な人物への連絡を後回しにした。

 あるはずのアドレスが見えない。
 いるはずの存在が見えない。
 共通している点をあげるとすれば、そのどちらも「女のもの」であるということ。
 そして、「目に入らない」という視覚に関係しているということ。
 指を二本立てそう説明する男は、目尻の垂れた瞳をまっすぐにレオナルドへ向けている。

 彼が、何を言いたいのか。
 何を、考えているのか。
 わずかに細められた瞳に、ひゅ、と喉の奥が嫌な音を立てた。
 その「異常」は、どれほど高度な幻術であろうと見破れてしまう「神々の義眼」にも見えなかった。つまり、義眼の能力を上回るほどの力が、スティーブンの身を襲っている、と考えられる。そのようなものが実際存在しているのか。血界の眷属のオーラや諱名さえ見通す瞳に、見えないものがあるとでもいうのか。
 いや、そう考えるよりももっと現実的で、より高い可能性を持つ推測が、ある。

「それは君だよ、レオナルド」

 一本に減った指先が心臓を撃ち抜くように向けられる。

「君が、義眼を使って僕の視界をジャックしている(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 女のアドレスが見えないように。
 女の姿が見えないように。
 恋人の目を操って、隠してしまっている。
 それは呪いではない。術をかけているわけでもなく、直接対象の視界を操作してしまうのだ。その痕跡を義眼そのもので辿れるはずがないのも当然のこと。
 「神々の義眼」にそういった所業が可能か不可能かで問われたら、確かに可能だ。神の創りたもうた芸術品は、すべての眼球を平伏させることのできる王。他人の視界を意のままに操ることなど容易い。実際、それをやってのけていた存在をレオナルドは知っている。
 しかし、だ。
 血の気の失せた、真っ青な顔のままレオナルドはふるり、と頭を横に振った。唇をわずかに開き、ふる、ふるふる、と続けて首を振る。
 知らない、と呟いた言葉は掠れており、ほとんど音になっていなかった。

「知らない、です、僕」

 今度は先ほどよりは音として、言葉として、形をなしていたと思う。

「そんな、こと、してない。僕にはできない、から、だから……」

 可能だと知識として知ってはいるが、実際にレオナルド自身がそれをできるかといえば首を傾げざるを得ない。通常の視界をわずかに広げ、見えるものを二割ほど増やして選別するだけで異様な熱を持ち始める眼なのだ。たとえ相手がスティーブンひとりとはいえ、ピンポイントで眼球を支配するなど、少なくとも今のレオナルドにできる技術ではない。そばでレオナルドが義眼を使う様を見てきているのだ、スティーブンだってそのことを理解してくれている、そのはずなのに。
 でもレオナルド、と紡がれた言葉を遮るように、「僕じゃない!」と少年は声を荒げて叫んだ。

「僕じゃありません! 僕は何も知らないっ、何も、してませんっ!」

 それだけ言い捨て、レオナルドは事務所を飛び出した。ばたばたと足音を立てて廊下を駆け抜け、術のかけられた特殊なエレベータへ飛び乗る。スティーブンが追いかけて来ているかいないか、それすら確認することもできず、レオナルドは自宅へと原付バイクを走らせた。
 僕は知らない。
 先ほど吐き捨てた言葉が脳内でぐるぐると渦巻く。

 知らない、僕は何も知らない、何もしていない!




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2016.07.20