溶けない感情・5


 一度でも考えなかった、といえばもちろん嘘になる。
 思ったことはある。
 いなくなればいいのに、と。
 彼に笑みを向けられた女など、キスをされた女など、抱かれ愛を囁かれた女など。
 みんな、消えてしまえばいいのに、と。
 彼の視界から、失せてしまえばいいのに、と。
 思わないはずがないではないか。
 だってレオナルドは彼の、スティーブンの「恋人」だ。性別、年齢差、立場の差、能力の差、いろいろあれどもそれでも、恋人としてつきあっていたのだ。そうでありながら、あの男は仕事のために、ライブラのために、彼の唯一なる存在のために、どこの誰とも知れない女へ愛を囁いている。レオナルドへ甘く囁いたあの声で別の名前を呼び、レオナルドへ優しく触れたあの手で別の身体を愛撫しているのだ。
 恨めしく思わないはずがない。
 腹立たしく思わないはずがない。
 そう思う資格がない? 笑わせる。資格など履歴書に書くときぐらいしか使えないではないか。
 けれどだからといって、レオナルドがそう思っただけで、恋人の視界から愛された女の痕跡など消えてしまえと呪わしく思っただけで、本当にそうなってしまうものだろうか。そうなってしまったのだろうか。

 ざぁああ、と響く水音に、「違う、僕は、違う」と繰り返す少年の声が重なる。
 狭い自宅に逃げ込むと同時に、レオナルドはシャワールームへと飛び込んだ。頭を冷やさなければ、高ぶった感情を沈めなければ。そう思ったのかもしれない。
 勢いよくコックを捻り、着衣のまま冷水を頭から浴びる。

「違う、僕じゃない、僕は何もしてない……っ」

 何もしていない。するはずがない。
 そもそもいくらそうあって欲しい、そうなってしまえばいい、と呪ったところで、具体的にどうすればできるのか、分からないのだ。今だって分かっていない。
 感情と理性は別物で、たとえ頭で分かっていても気持ちがついてこないことがある。同じように、たとえ気持ちが高まっていたとしても、頭がついてこないことだってある。いくら男を恋しく思えど、そこまで落ちぶれてはいないつもりだ。
 けれどここで問題なのは、両目に埋まっているのが忌々しい眼であるということ。他人の視界を支配することを容易くやってのける、それだけの力を持つ呪われたもの。
 そんなはずはない、そんなことはしていない。
 いくらそう思えど、何度繰り返せど、実際にはそれができる、できるだけの力を持ったアイテムであることを、レオナルドは知っているのだ。
 そういったことが可能である、と考えたことが、今の今まで一度たりともなかった、と言い切れるだろうか。
 降り注ぐシャワーの水を浴びながら、レオナルドはぎゅう、と己の両眼を押さえ込んだ。

「くそったれ……っ」

 これが、この眼が、こんな眼があるから……っ!
 妹の両目から光は奪われ、兄は日々死にそうな目に遭っている。
 妹は愛するひとの顔を見ることすらできず、そして兄は愛するひとから疑いの眼差しを向けられる羽目になっている。
 すべてはこの眼のせい。この眼を押し付けてきた忌まわしい上位存在のせい。それらを憎まずに、呪わずにいられようか。

「ぅあっ!?」

 脳内で展開される呪詛の数々、呼応するかのようにふぉん、と突然両眼が熱を持った。キィン、と耳鳴りがする。レオナルドの意思とは関係なく展開される数々の光景、無秩序に現れては消えるそれらは、眼がこの双孔に収まってから捕らえたものなのだろうか。慌ててぎゅう、と瞼に力を篭めるが、光を発して動き始めた双眼を抑えこめない。

「あ、あっ、あっ、ぁあああっ!」

 がり、と瞼の上に爪を立てる。わずかな痛みはあったが、すぐに義眼の発する熱にかき消された。がり、がりがりがり、とあまり伸びていない丸まった爪で、少年はただ己の両目の回りを掻きむしり、無理矢理押しつけられる景色に声をあげてのたうち回る。

「あっ、ぅ、ぐ、ぅ、ぅえぇっ」

 見えるものが多すぎて、処理速度が追いつかない。故郷の景色、笑った妹の顔、誰も乗っていない車いす、霧に覆われた空、力強く前を向く広いリーダの背中、褐色肌の先輩の手、いつも食べているバーガー、行きつけのダイナー、ゲーム屋で見かけた最新ハード、バイト先で使うバイク、制服、鮮やかな紅いオーラ、忌々しい神性存在。
 現れては消え、消えては再び現れる。
 こちらを見下ろして笑う恋人の顔、逸らされる視線、薄暗い路地、柔らかなウェーブの掛かった金髪を背中に流す女性、赤い唇、真っ赤な爪、短いスカートから伸びる肉付きの良い太腿、そこに触れる男の指、細められる瞳、徐々に近づくふたりの顔、歪む口元。
 その光景を見ているのはレオナルドだ。嫉妬に狂った、醜い顔の自分。

「ぅぐぅ……っ!」

 ぐるぐると脳味噌をかき回されているようで、せり上がってくる胃の内容物をそのままバスルームの床にぶちまけた。据えたにおいがあたりに広がるが、流れるシャワーの水ですぐにそれらは排水溝へと落ちてゆく。両目から溢れる涙は、生理的なものと感情的なものと、おそらくは両方含まれていただろう。

「い、やだっ、いやだいやだいやいだっ見たくないっ、見ない、見せるな……ッ」

 こみ上げてくるままに泣き叫び、嘔吐し、水に打たれ、両目を掻きむしる。
 どれほどそうしていたのか。
 朦朧としてきた意識のなかで、かすかに、自分を呼ぶ男の声が聞こえた。

「ぉいっ、おい、レオッ!? レオナルドッ! しっかりしろ、この陰毛頭っ! くそがっ、なんで、こんな……っ!」

 ひどく慌てた声音の男がなぜここにいるのか。レオナルドには考えても分からない。分からないけれど、抱き抱えられたその腕はひどく温かかった。

「ざ、っぷ、さ……よごれ、る……」

 シャワーで流れているとはいえ、レオナルドは己の吐瀉物を浴びているはずだ。弱々しくそう口にし、男の腕から逃れようとしたが、「うるせぇ、黙れボケ」と切り捨てられた。
 ひょい、とまるで荷物のように抱え上げたレオナルドを、ベッドにかかっていた薄っぺらいシーツでくるんで部屋をあとにする。その際、床に投げ捨てられるように放置されていた携帯端末が着信を知らせていたが、モニタに表れていた名前を読みとったザップは、眉間にしわを寄せて視線を逸らせただけだった。
 結局その着信は、レオナルドの端末の充電がなくなるまで続いていた、ということを、病院へ向かったふたりは知らないままでいる。


**  **


 幻界病棟ライゼズが偶然浮上しているタイミングであったことが幸いした。いや、それによってより的確な処置ができたというより、ここになら任せても大丈夫だ、という安心感がある。おそらくこの症状はどこの病院にかつぎ込んでもできることは限られているだろう。何せ処置する対象は神々の義眼であり、人間の手に余るオーパーツだ。
 持ち主であるレオナルドの動揺、あるいは不安感から、暴走を引き起こしているのではないか、と医者は言う。瞼を閉じていてもそれが光を発していることが分かり、また触れずとも熱を持っていることが伝わってくる。

「とりあえず術式を組み込んだ包帯で封印めいたものを施してある。どこまで抑え込めているかは分からないけどね。冷やしてもいるけど、熱が続くようなら脳にダメージが残る可能性が高い。早く彼の心が落ち着いてくれたらいいんだけど」

 ルシアナの説明を聞く男は理解しているのかいないのか、相づちを打つことなく険しい顔をして横たわる少年を見やっている。眼の持つ熱のせいか、頬が紅潮しておりひどく苦しそうだ。乾いた唇が微かに開閉を繰り返しているのが見て取れる。呼吸をするためだろうかと思ったが、繰り返されるその動きが、どんな音をなすためのものなのか、なんとなく察してしまった。眉間にしわを寄せ、ザップは盛大に舌打ちを零す。
 ひどく機嫌の悪そうな男を前に、しかしルシアナはひるむことなく淡々とした口調で「病人の前だよ」と注意を促した。

「……一応、伝えておくよ。君たちライブラメンバがここに運ばれた場合教えてほしいってことだったからね」
 スターフェイズ氏には連絡を入れてある。

 ルシアナの言葉にザップを取り巻く空気がさらに剣呑なものへと変化した。まるで危機に瀕した野生の獣のように、敵意と怒気、殺気を滲ませる男へため息を零し、「だから病院だってば」と白衣を着た小さな医者が呟く。いや、ザップの放つ苛立たしさが増したのは、ルシアナの言葉を聞いたからというよりもむしろ、近づいてきていた気配に気が付いたから、かもしれない。
 軽いノックのあと、返事も待たずに顔を出したのは、今まさに名前が出てきたライブラの副官、スティーブン・A・スターフェイズそのひとであった。
 殺気のこもった視線をスティーブンに向けたザップは、再び大きく舌を打つ。彼は知っているのだ、レオナルドがこうなってしまった原因を。少年の心をかき乱し、追い込み追い上げ追いつめたのが誰であるのか、を。
 「ずっと、」と怒鳴りたくなる衝動を堪え、低く掠れた声でザップは言った。

「あんたを、呼んでる」

 はくはくと、力なく動く少年の唇は、ただ一つの名前だけを繰り返している。
 吐き捨てるようにそれだけを言い、男は病室を後にした。柄にもなく、これ以上少年が傷つくことがないように、と願ってしまうが、それでも今のザップにできることはない。あのような状態になってまで少年が手を伸ばす相手は、あの男なのだから。


**  **


「僕ね本当に……本当に、ですよ? あなたのことが、好きなんです」

 術式包帯での封印のおかげか、繰り広げられる無数の光景からは逃れられたが、それでもまだ義眼の発熱は収まらない。茹るような熱さに浮かされたまま、少年は包帯の上からそっと眼を覆ってくれる手の持ち主へ語りかける。うっとりと頬を緩め、ひどく嬉しそうに笑いながら、「愛しています」と恋心を囁いた。

「けれどね、僕があなたにあげられるものなんて、一つもないんです」

 あんたの一番になることはできない。
 あんたを一番にしてあげることもできない。
 それは最初から分かっていたことで、今更考えても仕方のないことでもある。

「そんな僕だから、あんたに優しくしてもらえる資格も、愛してもらえる資格もないって、そう思ってた。思おうと、していたんです」

 でもすみません、と少年は口元を緩め、いつものようにへらり、と力の抜けた笑みを浮かべて言葉を続けた。

「やっぱり、だめみたいです。僕以外を見てるあんたを見て、殺したいって思った。あんたが触った女、みんな消えちゃえばいいのにって」

 この命と眼は妹の、ミシェーラのもの。
 気高く優しいプリンセスのために、レオナルドは地獄のような世界に飛び込んだ。

「だからそれ以外、僕の全部をあんたにあげられたらいいのになぁ」

 何が残っているのか、と問われても具体的には答えられない。けれど、もし残っているものがあるのだとすれば、それはすべてスティーブンのもの。そう言えたらどんなに幸せだろう。
 最愛の妹のために両腕を広げ、指を切り落とされることも厭わない少年は、どこか夢見るような口調で焦がれる男への想いを紡ぐ。それはおそらく、男へ聞かせるためのものではないのだろう。脈絡なく、思いついたまま、独り言のように、ぽつぽつと言葉を重ねるのだ。
 いやだなぁ、とレオナルドは同じ声音で言った。
 なんでこんなに好きなんだろう、と。
 まだ力の入らない身体を無理矢理起こし、ベッドの側に立っている男に向かって手を伸ばす。包帯で覆われていたとしても、その義眼にはおおよそどのあたりにいるのか、見えてしまうのだろう。
 熱い指先がするり、と男の頬を滑る。
 傷跡をなぞった指は、そのまま目じりを抑えるように移動した。

「ねぇ、今、あんたの目に僕は映ってますか? それとも、僕以外の誰かが映ってますか?」

 僕だけしか目に映らなければいいのに。
 だって、僕にはそれができるんでしょう?
 あんたが僕以外、見えなくなってしまえばいい。
 そうしたら、もしそのときがきたら。

「ねぇ、スティーブンさん。そうしたら、」

 僕だけを愛してくれますか?
 
 しかし冷えた手の持ち主は口を開くことはせず、答えないまま。縋りつくレオナルドの身体に触れようともしない。
 あはははっ、と両目を包帯で覆った少年は力ない笑い声をあげた。
 拒否はしないが、受け入れもしない。
 最悪だ、と彼は笑いながら吐き捨てた。

「あはは、ほんと、ひでぇひと。ねぇ、エッチ、します? 僕のこの身体におっ勃てて射精してんだから、それなりに良かったんでしょう?
 あんたとのセックス、嫌いじゃないんです。すげぇ恥ずかしいし、つらいけど、中で出されんのだって、実は好きなんですよ? ね、しましょうよ、セックス。僕、どれだけ熱いのぶっかけられても、あんたへの気持ちは溶けて消えたりしないって、言い切れますよ」




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2016.07.20