溶けない感情・6


 眠ったというよりもむしろ、意識を失ったといったほうが正しい倒れ込み方だった。極度の疲労、心神喪失に少年の身体が悲鳴をあげたのだろう。
 相変わらず義眼の暴走は続いているようで、術式包帯の下からも淡い光が漏れている。発熱も収まっておらず、冷却シートを包帯の上から置いてみたが、すぐに役割を果たさなくなってしまった。
 ただのゴミと化したシートをよけ、そっと目の上へと手のひらを押し当てる。少年が狂気じみた恋心を語っていた間一言も言葉を発しなかった男は、まるで重い鉛でも飲み込んだかのような、ひどく苦しげな表情を浮かべていた。
 再びレオナルドが目を覚ます前には病室を後にするつもりだった。ここは病院だ。しかも異界の技術すら取り入れて治療を行う幻界病棟。付き添いなどせずとも、可能な限り今のレオナルドに必要な処置は施される。
 そう分かっていても、なかなか立ち去れない。せめて魘されずに静かに眠ってくれるまでは、と思い少年の様子を窺っているうちに、逆にこちらがうたた寝をしてしまったらしい。ここ最近考えることが多すぎて、しっかりと睡眠が取れていなかったせいもあるだろう。
 ベッド脇のイスに腰掛けていた男は、ふと、鼓膜を震わせる音に気がついた。怪しい気配があるわけではなく、室内には自分とレオナルドだけであることに変わりはない。となれば、この音は少年が発しているものであり。
 目を開けレオナルドへと視線を向ける。
 ごめんなさい、と。
 横たわった少年は魘されながら、ただ謝罪だけを繰り返していた。

「ごめん、なさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 喉から血を流しているのではないかというほど切々に、そして痛々しく響く声。毛が生えていると揶揄されることのある心臓に、無数の針を突き立てられたかのような、そんな気がした。

 どうして謝っている。何を謝ることがある。
 君が悪いわけではない、君は何も悪いことをしていないのに。

 青ざめた顔のまま咄嗟に少年の名を呼び、肩を揺すった。これ以上その謝罪を聞きたくない。その痛みに耐えられない。
 ひどく自分勝手な理由から触れることをためらっていたはずの腕を伸ばし、その名を口にした。最悪だ、と罵られた言葉はその通りだと、スティーブン自身も思う。

「レオ、レオナルド」

 もう一度肩を揺さぶれば、ひくり、と細い身体が震えた。目元は包帯で覆われているため、表情からは目覚めたのかどうか分からない。けれどわずかな呼吸の変化があり、身じろぎをする様子から、おそらく意識は浮上したのだろう、とあたりをつける。
 大丈夫か? そう、問いかけようとした。大丈夫であるはずはないのだろうけれど、著しく気分が悪いだとか、異常を感じるだとか、そういったことはないか、確認をしようと思った。
 けれど、スティーブンがそれを発するより先に少年が呟く、「もう、やだ。」
 それが一体何に対する拒絶なのか。
 判断することができず、ぎくりと身を強ばらせて言葉を探している間に、レオナルドがゆっくりと腕を持ち上げた。両目を覆う包帯へ指先を引っかけ、それを引き下ろす。現れた目の周囲の状態に驚いて息を呑んだ。さほど深いものはなさそうだったが、そこには無数の引っ掻き傷が残っており、真っ赤になって腫れあがっている。
 己の顔面上半分がそのような状態になっていると、少年は知っているのだろうか。「やだ」と繰り返しながら、がり、と腫れた瞼へ爪を立てる。

「も、これ、やだ、こんな、眼、やだ、いらな、っ」

 かりかり、がりがりと、皮膚を掻きむしりながら、少年はいやだ、いらない、と震える声で呪詛を吐き続けた。
 はっ、と我に返り、慌ててレオナルドの両手首を捕らえる。幸い力はあまり入っておらず、少年の目の回りのみみず腫れもわずかに増えただけのように見えた。
 落ち着け、と言葉をかけて宥めようとするものの、レオナルドは幼い子どものようにただ首を横に振る。そもそも、少年がこうなった原因を担う男が、どの口で「落ち着け」などと言えるのだろうか。言った自分でもそう思うのだから、レオナルドの耳に、脳に届くはずもないのだ。

「も、やだ、やだぁあっ」

 何も見たくない、何も見ないから許して。
 ぱさぱさと、癖毛を揺らして少年は許しを請い、ごめんなさい、と謝罪を重ねる。

「僕、ぼくの、せい、ぼくが思ったから、考えたから、だから」

 未熟な心が自分勝手に、欲望のまま欲しいものを望むが故に、大切なひとへ迷惑をかけてしまっている。どうしたって気持ちを制御できないのなら、もういっそうのこと、何も考えないで済むものになりたい。何も感じないでいられるような心でありたい。
 苦しげに吐き出される、懺悔にも似た言葉。すべてを拒否し、自分自身すら否定して、そうして少年に何が残るというのか。

「うれし、かったのに……っ」

 同性で年上だけど、憧れていて、いつの間にか好きになっていたひとと恋人になれて。上辺だけでも彼に優しくしてもらえて、愛してもらえて。
 嬉しかったのに、今までのその光景すら、もしかしたらレオナルドの眼が見せた幻だったのではないだろうか。こうありたい、と望む心が見せた幻影だったのではないだろうか。あるいは自分にとって都合の良いものしか見えないようになっていたのではないだろうか。
 そんな疑念が次から次に湧き起ってくる。

「ライブラの、みんなはちゃんと、いるひとたちですか? スティーブンさんが、優しくしてくれたの、現実ですか?」
 僕は今、ここにちゃんといますか?
 確認をしたところで、返される答えを信じることができない。
 何せこの眼は、レオナルドの知らないところで、レオナルドですら知らなかった本音を暴き出して、見せつける。視覚情報という一番信用に足るはずのものが、レオナルドにとってはもっとも信頼できないものに成り下がるのだ。
 もう何も分からない。
 何も信じられない。
 諦めるかのように言葉を吐き捨てたレオナルドの両眼が、ぽぅ、と青い光を発した。皮膚すらも通って漏れるその光。強くなった明かりに義眼の暴走がよりひどくなったのだろうと知る。うぐぅ、と呻いた少年は、両目を抑えこみ、丸くなって苦悶し始めた。
 収まる気配のない義眼の暴走は、そのまま少年の苦悩と、そして絶望を表している。

「ぐ、ぁ、あ、やっ、だ、も、見たく、ないっ、やだぁ」
 ごめんなさい、もう許して、ごめんなさいごめんなさい。

 拒否と謝罪を交互に繰り返して苦しむ彼を前に、心が痛まないものがいるというなら会ってみたい。平静を保っていられるものがいるなら、可哀そうにと思うだけのものがいるなら、ただ見ているだけのものがいるのなら、今すぐ出てきて顔を拝ませてもらいたい。おそらく現れた瞬間に、対象は全身氷漬けになっているだろうけれど。今ならどんな残酷なことでも、残忍なことでもできてしまいそうだ。
 今回のスティーブンへの「異常」がレオナルドの、「神々の義眼」の仕業であったとしても、それは少年の意図してのことではないのかもしれない。薄々とそう考えてはいたし、たとえ少年自らそれを仕掛けてきたのだとしても、彼を責めることなど自分にはできない、とスティーブンは思っていた。どうしてレオナルドがそんなことをしたのか、分からないほど愚鈍ではない。
 そこまでしてしまうほど、この少年に想われていたのだ、という事実に抱く感情は決して言葉にはできない。ただやはり「最悪」であることに変わりはないだろう。
 発動させた血凍道で冷やした手を、少年の手を避けて両目へ押し当てる。ナースコールを押すべきだろうか。考えながら汗で額にはりついた前髪をよけ、そのままくしゃりと柔らかな髪をそっと撫でた。
 丸い頭、触れるのがひどく久しぶりであるような気がして。
 男は上体を乗り出して屈め、少年の上で小さく名を呟いた。


**  **


 ノックに対し、返事がないことを不思議には思わなかった。まだ意識が戻っていないのだろう、そう考え病室へ足を踏み入れた彼女は、視界に飛び込んできた光景に息を呑む。

「…………なんで、いないの」

 誰かが寝ていた形跡の残るベッド、少し中身の減った水差し、引き抜かれた点滴。
 義眼の暴走により入院を余儀なくされていたレオナルド・ウォッチ少年は、巡回で医師が訪れる数時間の間にその姿を忽然と消してしまっていた。
 付き添いをしていたスティーブン・A・スターフェイズ氏とともに。




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2016.07.20