溶けない感情・7


 放り投げた端末が、着信を知らせている。長くコールが響いては切れ、またすぐに光り出した。音は消していたが、振動音が低く響き続けている。しかし、持ち主である男は聞こえないとばかりに視線を向けることもせず、ベッドに転がした「恋人」を見下ろしていた。
 拘束具など自宅にあるはずもなく、タオルと裂いたシーツで少年の両手を縛り、ベッドヘッドへとくくりつけている。これで彼の意識が戻ったとしても、どこぞへ逃げることは不可能だろう。愛しい少年は、ずっとスティーブンの腕の中だ。
 最初から。
 こうしていたら良かったのかもしれない。
 倒錯的な光景にわずかな興奮を覚えながら、男はのんびりとそんなことを考える。赤みがかったグレーの瞳には、どこか薄暗い影がかかっていた。
 腕を縛っているため服を脱がすことができず、躊躇うことなく入院着をナイフで切り裂く。下肢の衣服もするりと奪い取り、一分もかからないうちに恋人はほとんど何も身に纏っていない状態となった。空調を効かせているため、寒さを覚えることはないだろう。病院では義眼暴走から魘されていたが、今は少しばかり落ち着いて眠っているようだった。まだ顔色は悪く、健やかな寝顔とは決して言えなかったが。
 レオナルド、と声にはせず名前をそっと紡ぐ。
 無防備な状態で横たわる彼を前に抱く感情は、ほかの誰にも覚えることのないほどの愛しさと、庇護欲、そして独占欲と支配欲。
 少年が、その小さな頭でいろいろと考えていることは知っていた。誠実ではない年上の恋人に対し、自虐的な思考を展開させていることもなんとなく分かっていた。
 確かに自慢できるような生き方をしてはいないが、スティーブンは心の底から少年を想い、愛している。そう言葉にして伝えても良かったが、それだっておそらくレオナルドは信じてくれなかっただろう。
 スティーブンの今までの言動から、そして少年の卑屈な考え方から。
 信じてもらえないのなら何を言っても無駄だ、そう判断した。火種をわざわざ掘り起こし、決定的な亀裂を作ってしまうくらいならば、たとえ表面的な平和であったとしてもそちらのほうがいいと思ったのだ。
 レオナルドがいれば良かった。
 少年を己のものだと思い、手を伸ばして触れ、キスをすることができたら、それだけで良かったのだ。
 傷つけたいわけではなく、笑顔でいてもらいたかった。

「……どれだけ俺がこうして君を閉じこめたいと思っていたか、知らないんだろうな」

 恋人は何らかの才能を持っているわけではなかったが、ひとに好かれ、懐かれることにかけては類を見ないほど秀でていた。異常が普通であるHLにおいて、あくまでもただひたすら「普通に」優しい人物だったのだ。本音を言えば、そんな彼の愛情を独り占めしたかった。ただひとりだけ、彼に優しくされたかった。その笑顔を他の誰にも見せたくないほど、歪な執着ばかり大きくなってる。
 そんな狂気じみた感情を抑えつけ、精一杯優しく、綺麗な気持ちを彼に向けてきたつもりだった。
 だって、嫌われたくはない。恐がられたくはない。
 ただ愛したかった、愛してもらいたかった。
 ともに過ごす時間が安らげるものであったことは確かだ。レオナルドだっていろいろ考えてはいたようだが、決してその空間を厭うていたわけではないと知っている。楽しかった、幸せだった。この時間がずっと続けばいいのに、と柄にもなく考えてしまう程度には。
 そうして目先の幸せだけを考え、傷つくのをおそれるあまり、ぱっくりと開いていた溝を見て見ぬ振りをし続けた結果が現状なのだろう。
 レオ、と小さく呟き、横たわる少年へと覆い被さる。うっすらと開いた唇に己のそれを押し当て、輪郭を辿って顎から喉へ舌を滑らせた。首と肩の境目をぬろりと舐めたあと、がり、と歯を立てる。

「ッ!」

 びくり、とレオナルドの身体が跳ね、うっすらと青い光が瞼の隙間から零れ落ちた。どうやら意識を取り戻したらしい。うぅ、と呻く声が聞こえる。いつもより光が強い、やはりまだ暴走は続いているようだ。
 病院で瞳を覆っていた包帯は少年自身が取り払ってしまった。普通の包帯ならば用意できるが、封呪術式の施されたものは病院へ戻らなければないだろう。包帯をしていても瞳の熱や光は収まっていなかったため、気休めにしかならないのかもしれない。
 歯を立てた箇所から滲む血液を舐めとり、肌を吸い上げていれば、レオナルドは唸りながら身を捩る。しかし両手は拘束されているため、彼が自由になる部分といえば両足くらいだった。

「っ、や、やだ、も、やだぁっ」

 ぼふぼふと、暴れる両足を好きにさせてやりながら、晒された素肌へ手のひらを這わせ、唇を押しつける。触れられているという感覚はあるらしく、「や、さわ、んなぃでっ」と拒絶の言葉が降ってきた。相手がスティーブンであるということを、彼は理解しているのだろうか。だからこその拒否、なのだろうか。

「みた、くなっ、も、や、だ、見ない、見ない見ないってばぁあっ」

 その精緻なる眼球に、いったいどんな光景が映っているというのだろうか。いやだ気持ち悪い、見えない見せないで、ごめんなさい。レオナルドはただ、溢れる映像から逃げるように言葉を吐き出し続ける。

「も、もぉ、いい、ごめ、ごめんなさっ、おねがぃ、ゆるし、っ」

 生きててごめんなさい。
 生まれてきてごめんなさい。
 何も出来なくてごめんなさい。
 迷惑かけてごめんなさい。

「あやま、るからぁっ、も、寝か、せて、死なせて……っ」

 次から次に紡がれ吐き出されるそれは、少年が普段押しとどめている本音に近いところにある感情なのかもしれない。
 その心の柔らかさと強さから懸命に前に進もうとしてはいるが、それでも彼はずっと、己自身を責め続けている。たとえ誰が許そうとも、彼自身が自分を許すことはできないのだろう。最愛の妹の瞳を取り戻すその日までは。
 ごめん、と繰り返される謝罪と、少女の名前。
 レオナルドの「一番」はいつだって、優しく美しい、盲目の少女なのだ。
 分かっていたことだ、そういうレオナルドだからこそ、目を惹かれ、心を奪われた。息を吐き出し、側に転がしていたナイフをとってベッドヘッドから伸びるシーツを切る。少年の両手首はまとめて縛ったままだが、これでその細い身体を抱え、抱きしめることができるようになった。
 身を捩る力はセーブしていないせいか、普段の彼からするとひどく強く、押さえ込むのに骨が折れる。けれど、もともと体格差があり、少年が今身体的に弱っているため、できなくはないことだった。
 あぐらをかいた上に座らせるように抱き込み、その背中を撫でたり叩いたり、幼子をあやすように小さな身体を揺さぶる。スティーブンの肩に額を押しつけ、しばらくは呻いたり暴れたりしていたが、徐々に誰に抱かれているのか、触れているのが誰であるのか、認識し始めたらしい。「ミシェーラ」という名前のほかに、「スティーブンさん」という呼びかけが混ざるようになった。

「は、はなっしてっ、も、やだ、離して、離してっさわん、ない、で」
 優しくしないで、どうせ僕なんか好きじゃないくせに。

 縛られたままの両手で、己を抱える男の胸を叩きながら責める言葉を口にする。最低、最悪、ひどいひと。暴走する義眼に対する罵倒から、今度は愛する男への罵倒へと。淡く光る義眼に涙を浮かべ、無言のまま見下ろすスティーブンを少年は睨み上げた。

「なんっ、なんでっ、何も、言わないんですかっ、早く、離して、離せっ! こんな人間、面倒だって、要らないって言って、早く捨ててくださいよっ」

 そうして感情のまま吐き出した自分の言葉に、けれどレオナルドはさっと顔を青くして涙を零すのだ。

「あッ、や、だっ、やだやだっ、すて、すてない、でっ。好き、すき、なんです、あなたが、あなたのことが……っ」

 言葉の前後に脈絡などなく、それがレオナルドの本当に言いたいことなのかは分からない。衝動的に口にしただけで、理性のあるときには決して言わないようなことなのかもしれない。思い出して後悔する言葉だとしても、けれどもはやスティーブンにとってはどうでもいいことであった。

「愛して、ます、誰よりも、なんでも、するから、だから、おねがい、」
 捨てないで。

 震えながら今こうして紡がれる言葉がすべて。
 スティーブンにすがりつき、吐き出される言葉がすべてだった。

「……本当に?」

 少年の耳元に唇を寄せ、低くそう問いかける。
 突然鼓膜を震わせた声に、レオナルドはびくり、と身体を震わせた。頬は涙で濡れ、目は淡く光ったままで憔悴した顔をしている。可哀そうなレオナルド。スティーブンを好きにさえならなければ、こんなにも苦しむことはなかっただろうに。
 赤灰の瞳を細める男を、少年は青い瞳を開いて見つめた。

「本当に、君は僕を、愛しているの?」

 神々の創りたもうた嗜好品をのぞき込み、しっかりと視線を合わせて言葉を繰り返す。その言葉の意味が脳に届いたようで、彼は眉間にしわを寄せてくしゃり、と表情を歪めた。
 疑いますか、と少年は吐き捨てる。

「無意識のうちに視界をジャックしてしまう僕を、それでもあんたは疑うんですか……!?」

 好きなんです、愛してます、なんでもします、僕にできることなら。

「僕の命と眼はミシェーラのもの。それ以外は全部、あんたのものにしてください」

 そうできたらいいのに、と熱に浮かされたまま紡いでいた願望を再び口にする。
 レオナルドのなかで絶対的な位置にいる妹と、双肩を並べることのできる存在はない。けれど同じ文脈で語られるというのはきっと、彼からすれば最大限に心を傾けているという証なのだろう。
 俺のものか、と小さく呟いた男は、少年の顎に指をかけ上向かせる。

「それは、俺の好きにしてもいいってことか」

 わざと感情を篭めず平坦な声音でそう言えば、しかしレオナルドは怯える様子も怖じ気づく様子も見せず、「そうですよ」とあっさりと答えた。スティーブンはするりと左手を移動させると、片手で十分抑え込めそうな細い首へ手のひらを押し当てる。

「だったら、首輪つけてここに繋いで、飼い殺してやろうか」

 ぐ、と手のひらに力を込めれば、レオナルドは片目を眇め一瞬だけ苦しそうな顔を作った。けれど縛られたままの己の両手首をちらりと見て笑うのだ、「そういう趣味、ですか?」
 その額には脂汗が浮かんでおり、彼はずっと義眼の暴走がもたらす高熱に耐えている。はふ、と吐き出す息に熱が篭っているのもそのせい。けれど、上気する頬に潤んだ瞳、熱を持つ肌、すべてがスティーブンに抱かれているときのものに似ていて、これで興奮するなというほうが無理な話だ。

「いいですよ、お好きなように」
 だってこの眼と命以外はあんたのものですから。

 背を反らし、首を伸ばしてスティーブンの顔へ唇を寄せる。姿勢のせいか、少年のキスは頬と顎の間あたりまでしか届いていなかった。そのことがおもしろかったらしく、レオナルドはひとりでくすくすと笑っている。感情の起伏が激しい、誰が見てもこの少年が義眼の暴走と高熱のせいで正気を失っていると判断するだろう。そんな状態で紡がれた言葉を真に受けるなど、間抜けどころではなくむしろレオナルドに対し悪意を持っていると判断されてしまうかもしれない。
 その小さな頭を捕らえ、身を屈めて無理矢理唇を合わせた。むぐ、と呻き声を零しつつ、少年は素直に口を開き伸ばされた舌を受け入れる。唇を噛み舌を蠢かせ、唾液を注いで口内を蹂躙した。くちくちと、小さな水音が響き、苦しげに呻くレオナルドの声が鼓膜を震わせる。
 唾液の糸を引いて唇を解放してやれば、けふ、と少年が小さくせき込んだ。その口元をぺろりと舐め、顔を捕らえていた手を滑らせる。のどを撫で、胸元を撫で、手のひらを押し当てる箇所は素肌をさらしたままの下腹部。「ここに、」と吐息が触れるほどの距離で、スティーブンは囁いた。

「ずっと俺のを突っ込んでいてやる。孕ませることもできない無駄な精子がレオの中で腐るんだ」
「いいですよ、奥で出されんの、好きなんです」

 おぞましいことを口にしているはずなのに、言われている本人は変わらず微笑を浮かべて許可を紡ぐ。腹を撫でるスティーブンの手に己の両手を重ねた彼は、「でもそのかわり、」と言葉を続けるのだ。
 先を促すスティーブンを見上げ、ふふ、とレオナルドは光る義眼を細めて笑った。

「くそったれな僕の眼球があんたの視界をジャックするんでしょうけどね?」

 あはははっ!
 僕以外、見えなくなってしまえばいい……!
 捨て鉢になったかのように吐き捨てられた呪詛。無意識のうちでもあれだけのことをしでかす眼球だ、もしレオナルドが意図的にそれを行えばどうなるのか。考えるだに恐ろしい。けれど、それがどうした。仕事の方法、手段については代わりを探せば良いだけのこと、レオナルドには代わりなどいない。
 いいさ好きにしろ、とスティーブンは口元を歪めて答えた。

「お前の姿さえ見えているなら、俺はそれでいい」

 その言葉に少年は驚いたように美しい青眼を見開く。息を呑み、言葉を失った彼はそのまま恋人を見つめたあと、はっ、と乾いた息を吐き出した。

「……あんたも、大概おかしいな?」
「そんなの、今に始まったことじゃないだろう?」

 そもそも、世界を救うだなんて、まっとうな頭で考えて進めるのは、よほど心の強いものでなければ無理なのだ。光の中を突き進める、光そのものでなければ、きっと無理なのだ。心酔する男のためならば、その信念のためならば、どんな手段をも厭わない。そうして影を進む存在に、正気など残っているはずがないではないか。
 年若く柔らかな心を持つ恋人を苦しめると分かっていても、抱き込む腕の力を緩めてやることはできない。たとえどれほど恋人が高熱に侵されていようが、真っ青な瞳から涙を溢れさせていようが、レオナルドへ向ける感情は溶けることなく、消え去ることもないのだ。
 やっと望むものを手に入れた。執着を、甘く見てもらっては困る。
 にんまりと笑った男は、光を放つ瞳と視線を合わせたまま、吐息が触れるほどまで唇を近づけた。そうして落とされた囁きはどこまでも甘く、どろりと濁り、一度味わえばもはやそれなしでは生きられなくなってしまうほど香しい、まるで毒のような誘惑。

「壊れるなら俺のそばで壊れろよ、レオナルド」
 俺も一緒に、壊れてやる。




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2016.07.20