ココロの行方・2 まだ名前すら決まっていない薬だけあり、完全に実験途中のものであったようだ。とにかくどのような薬なのか、分からないことには手も打てない。 慌ててレオナルドを病院へと運びこみ、そのほかの身体的異常が出ていないか検査をしてもらったが、特に引っかかる要素は出てこなかった。若干栄養不足の面がある、と心配された程度で、耳にした副官の顔が盛大に顰められたがそれくらいだ。 医師にも薬のレポートを手渡し、その成分を確認してもらっている。何か不調を来すようならすぐに来るように、とのことで、入院をするほどではなく、また当然治療薬もない。とにかく効果が切れるのを待つくらいしかできないそうだ。 「よりによってザップとはね……」 諸々の騒動を鎮圧し、ライブラ事務所へと集まった中でスティーブンが額を押さえてため息をついた。しかも今回は珍しく、ザップに非はない。爆発はスティーブンたちが担当していた暴動によって引き起こされたものであるし、何か分からない薬品を被ってしまった仲間を心配して駆け寄るというのも、ごく当たり前の行動である。いつもならば、「俺は悪くねぇっすよ!」と己の無実を主張するザップであるが、今は口を噤んで黙ったまま。主張するまでもなく誰もがそうと知っているからだろう。 騒動の中心である少年、レオナルド・ウォッチは今現在、ソファに横たわっている。病院へかつぎ込まれる前から検査を受け事務所に戻ってくるまで、彼はずっと意識を失ったままなのだ。 「……ちと強く落としすぎた」 加減が分からん、と右手を閃かせながら呟いたのは、少年から「好きです」と告白を受けた男である。突然の言葉に驚いて思わずレオナルドの意識を奪った、というわけではない。ザップを好きだと思う気持ちが薬のせいであると分からないまま、己の気持ちの変化にレオナルドがひどく錯乱したためだ。暴れ叫ばれても困る、と首筋に手刀を落としたザップを責めるものはいないだろう。レオナルドにとってもそちらのほうが良かったはずだ。 「レオナルドの陥った錯乱が、レポートにある『多大なる障害』ということなのだろうか」 クラウスの呟きに、たぶん、とザップが答える。レオナルドが横になっているソファのすみに腰を下ろし、そっと少年を撫でながらスティーブンは小さく息を吐き出した。その表情が常にないほど気遣わしげなのは、不幸にも被害を受けてしまった少年が、彼の恋人だからである。 「……完全に無関係なツェッドにいてもらったほうが良かったかもしれないな」 ぼそりとそう呟いたところで、んん、とレオナルドの喉から呻き声があがった。きゅ、と眉間にしわが寄り、瞼が持ち上がる。うっすらと零れた青い光は、本人に面と向かって言いづらいが、やはりいつ見ても美しいものだった。 「あ、れ? 僕……」 額を押さえ、ゆっくりと身体を起こす。まだ脳が現状の把握に至っていないらしい。くぅるりと室内を見回し、視線の先に褐色肌の男を捕らえた。途端に彼は嬉しそうに頬を綻ばせる。 「ザップさん」 笑みを浮かべその手を伸ばしかけて、しかし彼ははっと、目を見開いた。 「あ、ちがう、僕、僕は、」 顔を強ばらせたまま呟くレオナルドを見やり少しだけ表情を曇らせたスティーブンは、それでもすぐに穏やかな笑みを作って「レオ」と恋人を呼ぶ。びくり、と少年の肩が大きく震えた。 「すてぃ、ぶんさん、ちが、違うん、です、僕は……っ」 真っ青な顔で震える手を伸ばした先は、今度は正しく少年の恋人である。血の気の失せた白い指を大きな手で包みこみ、「大丈夫、落ち着いて」とスティーブンはできる限りゆっくりと、優しく響く声音で語りかけた。身体を寄せ、大丈夫、と言い聞かせながらその背を撫でる。 「何があったのか、覚えてるかい?」 レオナルドが己の身に起こったできごとをどこまで覚えているのか。尋ねてみれば、ザップに意識を落とされるまではしっかりと記憶に残っていた。あのときは突然わき出た感情に混乱していたが、「これってあのビルで被った何かのせいですか」と語りながら気づいたレオナルドが口にする。そのとおり、とスティーブンが彼の推測を肯定した。 「レオナルド、落ち着いて聞いて欲しい。君が浴びてしまった薬品は、一般的に『惚れ薬』と呼ばれる類のものだったらしい。摂取後、最初に見た相手に好意を抱くものだ。どうやら君はザップをその相手として見てしまったようなのだ」 クラウスから紡がれた説明に、レオナルドは「うそ」と唇を震わせる。 「で、でも、僕、僕は、スティーブンさんの、スティーブンさんが……っ」 普段は瞼の下に押し込めている義眼を見開いたまま、レオナルドは年上の恋人に縋りつく。その言葉に、ようやくスティーブンは、少年が錯乱に陥った原因を知れたような気がした。 スティーブンもレオナルドも公私混同はせず、事務所では上司部下としてのつきあいを保ってきている。関係を隠してはいなかったが、クラウスやザップの前で恋人としてのやりとりをしたことなどない。きっとレオナルドが平静であれば、顔を真っ赤にして恥ずかしがり嫌がることだろう。けれど今はそのようなことを気にしている余裕などない。スティーブンにとって何よりも優先すべきことは、目の前で震えている恋人を慰めることである。 「うん、大丈夫、安心して。君は僕の恋人だ。君の気持ちは知っているし、信じてるよ」 「あ、スティーブン、さん、スティーブンさんっ」 目に涙を浮かべ繰り返し名を紡ぐレオナルドを抱き込み、何度も「大丈夫」と小さな背中を撫でる。ふたりのやりとりを見守っていたクラウスが、「なるほど」と小さく呟いたのが聞こえた。 「やはりそういう意味で障害がある、ということか。これは、レオにとってはつらいものがあるな」 「……どういう意味っすか?」 聞き止めたザップがクラウスを見上げて尋ねれば、リーダは心配そうにレオナルドを見やったまま推測を語る。 実験段階であった試薬(A)は、確かに摂取者の脳への錯覚を引き起こす。その点については正しく効果を発揮しているが、しかし薬の作用はそれだけ、なのである。 「それだけ、って、そこさえうまくいってりゃ成功なんじゃねぇの?」 眉を寄せて言ったザップへ、しかしクラウスは首を横に振った。 「たとえばザップ、君がもう二度と会いたくないと思うほど苦手な相手がいるとしよう」 「……あのくそジジィだな」 「そして、薬に触れた直後にその人物を見てしまった」 「うげ」 「薬の作用で、君はその相手のことを好きだと思う。けれど、薬に触れる以前の感情、二度と会いたくないほど苦手だ、という意識も君の中には残っているのだ」 惚れ薬という触れ込みで提供するのであれば、植え付けた好意がそれ以前の感情を排除できるほど強くなければならない。どれほど苦手な相手でも好きで好きでたまらなくなるほど。ほかに好きな相手がいようとも眼中に入らなくなるほど。 クラウスの言葉に、ザップが「あぁ……」と表情を曇らせてレオナルドを、そして少年を抱きしめているスティーブンを見やった。 「レオはスティーブンのことが好きなのだ。彼を好きなままで、それと同じようにザップ、君のことを好きだという気持ちを引き起こされてしまっている」 もし仮に、レオナルドがスティーブンとつきあっていなければ、いや少年に好きなひとが誰もいなければ、事態はもう少し違う経過を辿っていたのかもしれない。 「でも、俺を好きだっつーのは作りもんっすよね? じゃあ俺が顔見せなきゃこいつだって、アホなこと言うこともなくなるっしょ」 レオナルドの視界にザップがいるからこそ、少年は愛の言葉を吐き出してくる。それならば彼と会わなければ無駄に心をかき乱すことも、笑えない告白を聞くこともなくなるだろう。昼食を奢らせることができなくなるのは痛いが、後輩にトラウマを植えつけるのも気分の良いものではない。ここはしばらく少年と会わないほうがいい。 つーことで俺しばらく引っ込んでますわ、と室内に背を向け、ザップは事務所をあとにしようとする。男の言い分を聞いていたクラウスも、そうしたほうがいいのかもしれない、と申し訳なさそうに顔を曇らせたが、しかし声をあげたのは一番の被害者である少年、レオナルドだった。 ふたりのやりとりが聞こえていたのか、あるいはその気配だけを敏感に感じとってしまっていたのか。何せレオナルドは今、薬の作用でザップのことを何よりも愛すべき存在だと、錯覚しているのだ。 「あっ、だ、だめっ、ダメですっ! 行かないでっ!」 スティーブンの腕の中から抜け出した少年は、真っ青な顔のままザップの元へと足を向ける。 「行っちゃダメです、お願い、」 白いジャケットを握りこみ、「置いていかないで」と縋りつく。その姿は幼い子どもが母親に手を伸ばす様子よりももっと必死で一途で直向きで、だからこそ悲愴で、見るものの心を深く抉った。 「ザップ」 クラウスに呼びかけられた男は、「っす」と小さく返事をし辞する足を止めて戻る。レオナルドもついてくるかと思ったが、彼は先ほどまでザップのいた場所に座り込み、唇を噛んで涙を流していた。ひっ、と喉をしゃくりあげる音の中に、「ちがう、ちがう」と少年の悲鳴が繰り返される。 「こんな、こんなの、僕じゃない……っ、違うんです、ごめんなさい、違う、から……っ」 謝罪のあとに続く名前は、彼が本当に愛している相手のものだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と聞いているだけで胃が痛みそうな声音で繰り返す。レオナルドの頭へ軽く手を置き肩を撫で、スティーブンはしゃがみ込んでいる小柄な身体をひょいと抱き上げた。子どもをあやすようにぽんぽんと背中を叩きながら、ソファへと向かったスティーブンは、「ザップ、寄れ」と先に腰を下ろしていた男の位置を変えさせる。長ソファの半分を空けさせそこへレオナルドを座らせるのかと思えば、彼自身が恋人を抱き抱えたまま腰を下ろした。 「すまない、このまま話をさせてくれ」 そう告げる男の顔はどこまでも真面目なもので、決してこの事態を軽んじているわけではないことが分かる。 レオナルドは今、ザップに対する好意を膨れ上がらせている状態だ。好きというよりもむしろ、依存に近い感情の傾け方かもしれない。その相手が近くにいないとパニックを起こす。先ほどのザップが部屋を出ていこうとしたときの反応から、そのことが分かるだろう。 「……じゃあ、効果が切れるまで、俺がこいつと一緒にいたらいいってことっすか」 ザップの問いかけにスティーブンは頷くが、しかし残念ながらことはそう単純にはすみそうもない。どうして、と首を傾げたザップへ、「だから、この子は俺の恋人なんだよ」とレオナルドの背中を撫でながら男は言った。 「俺を好きな気持ちはそのまま残っているんだ。その状態でお前のことも好きで、効果が切れるまでとはいえずっとお前といて、それでレオナルドが俺に対して何も思わないでいられると思うか?」 平静でいられるはずがない。もしレオナルドが「薬のせいだから仕方がない」と割り切れるような性格であれば、あんな風に錯乱したりはしないだろう。ザップにとりすがった己を省みてショックを受けたりしないだろう、ごめんなさいと泣きながら恋人に謝罪することだってないだろう。 「レオの心が心配だな」 眉間にしわを寄せて紡がれたクラウスの言葉に、スティーブンは重々しく頷いた。 多大なる障害、どころではない。むしろこの薬品は失敗作でしかないだろう。被験者の精神に重大なダメージを負わせていては、たとえ一目惚れが発生しても意味がない。 「っ、く、らうす、さんにも、申し訳、ないです……っ」 ぐすぐすと、鼻を啜りあげながら、レオナルドがスティーブンの胸に顔を埋めたままぼそりと言葉を零した。普段ならクラウスやザップの前で恋人に抱きつくなど、恥ずかしくてできたものではないのだが、今はこの腕がないと心がばらばらになってしまいそうで怖くて仕方がなかった。ぎゅう、と縋りつく手に力をこめれば、同じほど強く抱きしめ返してもらえ、安堵から涙が止まらない。泣きながら、「ごめんなさい」と謝罪を紡ぐ。 「どうして私にまで?」 少年の意図が読めず、クラウスは首を傾げている。誠実な少年が、現状を恋人に対して申し訳なく思うのは仕方がないだろう。しかしどうしてクラウスにまで謝罪をしてくるのか。レオナルドはくぐもった声でその理由を告げた。 「僕がザップさんを、好きなの、薬の、せいですから。クラウスさんから、取りたいわけじゃないです」 震える声で落とされた爆弾にクラウスはわずかに息を呑み、ザップは目を見開いて言葉を失っている。ふたりの反応を前にレオナルドを抱いたままの男が、苦笑を浮かべて口を開いた。 「一応まとまってはいるんだろ? 君ら」 ふたりの気持ちがお互いに向いていたことは知っていたが、それから結局どうなったのかスティーブンもレオナルドも聞いていない。けれどふたりの間の空気が少し変わったことには気がついていたのだ。本人たちが口にしない事柄であったため、スティーブンたちも黙っていただけのこと。 隠しているつもりだった関係を仲間に(しかも後輩に)知られていたと気づき、ザップは珍しくも耳まで赤く染めてソファの肘おきに倒れこんでいた。愛人の元を渡り歩くような生活を今でもしているのかどうかは分からないが、ザップからすればやはり公にはしたくない事柄ではあったのだろう。 どうしよう、ばれてた、死にたい、とぶつぶつ呟いていた男の耳に、「ザップさんもごめんなさい」と弱々しい声が届く。 「めーわく、かけて、すんません」 レオナルドという少年は、弱いくせに口は達者で威勢がいい。絶対に敵わないと分かっているにも関わらず、ザップに対してひどく乱暴な言葉を吐き挑発してきたりもする。そのときは本気で腹を立て、一回マジで泣かしてやろうか、と思うのだが、結局はレオナルドのそういう態度をザップ自身が好み許してもいるのだろう。だからしょげた声で謝られるだなんて、気持ちが悪くて調子が狂う。 ちっ、と舌打ちを零し、身体を起こしたザップは、上司の胸に顔を埋めた後輩の頭をすぺん、と殴った。軽くスティーブンに睨まれたような気もしたが、見なかったことにしておく。 「何で謝るんだよ、別におめーが悪ぃわけじゃねぇだろ」 謝罪というのは、己の非を認めた上で紡ぐ言葉だ。プライベートでのいざこざならまだしも、任務上での事故であり、レオナルドはむしろ己の職務を忠実にこなしていただけなのだ。 「そもそもあの爆発は僕らが外で引き起こしたものだしね」 「すまない、レオナルド。私たちがもう少し慎重に動いていれば、このようなことにはならなかった」 棚が倒れ、薬品が降り注ぐ原因となった爆発は、レオナルドたちとは関係のないところで起こったものだ。もちろんクラウスたちがすべて悪いわけではなく、あの場所で小競り合いを始めたマフィアたちにも原因はあるだろう。そして何より、タイミングと運が悪かった。 ほらみろ、とザップはレオナルドのくしゃくしゃの髪の毛を軽く引いて言葉を続ける。 「誰もおめーのせいだっつってねぇだろ」 普段クズの中のクズ、と罵られることの多い男ではあったが、身内に対して面倒見の良いところをみせることがごく稀にある。守るべき相手、と認識しているときに追い打ちをかけることは、彼の性格上ありえないだろう。そんな男だからこそ、どれだけ虐げられても集られても、レオナルドは行動をともにしている。 ありがとうございます、とようやく少しだけ頭を上げた少年が、泣き濡れた頬を緩めて言った。 「でも、やっぱり、ごめんなさい。ザップさんが好きだって思う度に、ありえない、そんなわけない、こんなクズに惚れるくらいなら猿と恋愛したほうがましだ、ってものすっごい必死に否定しちゃうんで、さすがにザップさんに申し訳なくて……」 「んだと、この陰毛頭っ! ひとが気ぃつかってやりゃ調子に乗りやがって……!」 広げた手でレオナルドの頭を掴み、がしがしと揺らしている。レオナルドは痛い、離せ、と言いながらも、先ほどより表情は柔らかくなっていた。しかしそれでも意識しているのかいないのか、恋人のスーツを握りこんだままである。いつものザップならば確実にからかっているだろうが、今は決してそのことを指摘しようとはしなかった。 レオナルドが少し落ち着きを取り戻したことに胸を撫で下ろしながら、スティーブンは巨体をソファに沈めているリーダへと視線を向ける。友人はこちらの意図を察して腰を上げ、ザップがいる側とは逆のほうへとやってきてくれた。ちょいちょい、と指を動かし屈むよう求め、耳元で言葉を紡ぐ。すぐに内容を理解してくれた彼は、メガネの奥の瞳を細め、柔らかな笑みを浮かべた。 「ちょうど私もそう提案しようと思っていたところだ。早速手配させよう」 「すまないが頼むよ。薬の効果は百時間か」 「約四日といったところだな。私のほうは大きな予定は入っていないからどうにかなりそうだがスティーブン、君は?」 「あー、うん、どうにかしよう。僕もでかいのは抱えてないし」 「ここの近くが良いだろうな」 「そうだね。あとは大きな事件が起きないことを祈ろう」 うむ、と答えるクラウスと、スティーブンを交互に見やり、首を傾げているザップとレオナルドへ、ライブラの番頭は笑みを浮かべて告げた。 「ってことでお前たち、薬の効果が切れるまで僕ら四人で共同生活だ」 薬のせいでレオナルドはザップから離れることができない。 そして薬とは関係なく、レオナルドはスティーブンから離れたくない。 「……だったら俺ら三人だけでよくねっすか」 ザップの言葉に、「それじゃあクラウスがかわいそうだろ」とスティーブンはあっさりと答えた。 「クラウスのことだ、そう提案してもきっと構わないと言ってくれるだろうけどね。曲がりなりにも恋人が、期限付きとはいえ自分以外の男と同居するだなんて、おもしろいはずがないだろう?」 ちなみに僕だったら絶対に許さない、と笑顔で続けられ、「あんたはそーでしょうね」とザップはげんなりとした顔で返す。 「なに、四日間だけだ。そう無理な話でもない、お前も協力しろよ」 そう言われ、先ほど、自分に縋りついてきたレオナルドの様子がザップの脳内に蘇った。 あれを目の当たりにしておいて否、と答えることなど、できるはずもない。 ←1へ・3へ→ ↑トップへ 2016.07.20
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