ココロの行方・5


 いくら普段の仕事においても行動をともにすることが多いとはいえ、ライブラでの活動は予測不能な面が大きく、血なまぐさい案件に巻き込まれることも日常茶飯事である。この街ではもはやトラブルなど存在しない、トラブル続きでそれが当たり前のことになってしまうからだ。
 レオナルドの状態を考え、今日もまた割り振られた仕事は荒事にならない調査任務、そのはずだった。
 どごん、と突然響く爆発音。それだけなら残念ながらHLでは特筆すべき出来事ではない、ただそれが自分たちの真横で起こったとなればまた話は別だ。

「うぁああっ!?」
「ああっ!? なんだよ、くそがっ!」

 思わず真っ青な瞳を開いて驚くレオナルドを庇うように立ち、ザップが己の親指へ傷を作る。爆発の原因を探るべく義眼を向けたが、ふたりが行動するより先にどどどど、という地響きの音が鼓膜を震わせた。嫌な予感がする、早急にこの場を離れるべきだ。
 しかしその判断はどうやら一瞬ほど遅かったようで、もくもくと煙ののぼるビルの出入り口から何かが大量に走り出てきた。

「なっ、なんだこりゃあっ!」

 もふもふとした茶色い毛皮、しっぽのない丸みを帯びたフォルム、ネズミによく似たその動物。

「モ、モルモットですよ、これっ!」

 脳内で検索をかけ、はじき出した答えはしかし、ザップの耳に届いたか届いていないか。次々と出てくるモルモットの大群に、周辺は大混乱を極めていた。何せそのモルモット、体長が通常個体のおそらく倍以上ある上に、中には二足歩行で走っているものがおり、加え拡声器を手に(どこから用意した)なにやら主張を行っているのである。

「我々は、我々の労働環境の改善を要求する!」

 人間の五歳児くらいの大きさはあるだろうモルモットは、人語まで操るようだ。もはや彼らを『モルモット』と呼ぶのは間違っているのかもしれない。

「モルモットであるからといって、我々が非道な実験の被験者とならねばならない決まりはない!」

 どうやら爆発のあったビルで、何らかの実験が行われていたらしい。彼らはまさしく実験動物として、そこで飼育されていたのだろう。その状況に不満を申し立てるべく、テロを起こした、といったところだと把握はできたが状況は最悪だ。

「ザップさんっ!」
「っ、く、っそ、レオっ!」

 いったいどれだけの数の進化系モルモットがいたというのか、足の踏み場もないほど溢れてくる彼らに動きを制限され、身体を流され、ザップとの間にどんどんと距離ができてしまう。
 ここで離れてしまうのはかなりまずい。レオナルドの精神的な問題もあるが、身を守るすべがないままでこの場にいるのは自殺行為であろう。溢れるモルモットを始末すべく、銃火器を取り出しているものがいるからだ。HLPDならばまだ一般市民の安全を考慮してくれるだろうが、自分の身を守ることに精一杯である市民(ただの市民ではないやつらも混じっているだろうが)連中は、他人のことまで考えない、考える余裕などない。
 巻き上がる土煙で視界が悪い。ゴーグルを引き上げ、義眼を開いて銀髪を探す。

「ザップさんっ!」

 なんとかそちらへ戻ろうとするものの、足にぶつかるモルモットと、逃げまどう人々に邪魔され、名を呼んで手を伸ばすのが精一杯だ。身体能力と血法の有無から、まだザップのほうが動けるだろう。伸ばされた血の糸がレオナルドの手首に絡まる。引き寄せられる衝撃に構えようとしたところで、くそったれな芸術品の端に何かが引っかかった。

「ザップさん、右っ!」

 悲鳴じみた声で叫ぶのと、ザップが己の右側へ注意を向け、構えたのはほとんど同時であった。レオナルドの義眼で捕らえた異常に、その感覚だけで気づけるのだ、やはり戦闘センスはずば抜けて高い男である。
 血糸を解き、作り出した大剣で右側から放たれた刃を受け止める。モルモットたちもただ闇雲に脱出してきたわけではないらしく、人類に対抗する手段があるからこそテロという手段に出たのだろう。二足歩行しひとの言葉をしゃべる彼らは、強奪した武器すらも巧みに使いこなしていた。

「うっそぉ……っ」

 顔を青ざめさせ思わずそう呟く。もふもふとかわいらしい姿で銃やナイフを使う姿はかなりシュールで、夢に出てきそうなほど怖いものがあった。

「なぜ我々が人類の発展に、我が身を犠牲にして尽くさねばならぬのか!」

 立ってしゃべれるようになったのも、その実験過程における作用ではないか、と思ったが、それを言ったところでどうにかなるものでもないだろう。そもそも爆発を引き起こしてまで脱走してくる彼らが、人類の話を聞くような余裕を持っているとは思えない。

「このような非道な行いは、断じて許してはならないのだ!」
「許してはならない!」
「無念のうちに散っていった同胞の想いを知るが良い!」

 口々に放たれる主張は、どれだけ人類の耳に届いているだろうか。皆この場から逃げることに、生き延びることに精一杯である。かくいうレオナルドも、本格的にザップとはぐれてしまったため、安全な場所に身を隠さなければ命が危ない。
 膨れ上がる不安感は死に対する恐怖と、ザップの姿が見えないことへの心細さが故だろう。今すぐ泣き叫びたい、ザップの名前を呼んで、置いていかないで、ここにいてとうずくまりたい。けれどそんなことをしたところで事態は一ミリも好転しないだろう。流れ弾に当たって無駄に命を散らすだけだ。
 とにかく逃げなければ、と震える身体を叱咤し、眼へ意識を集中させる。ひとの流れ、モルモットの流れ、銃弾の飛び交う位置を見ながら、自分でも駆け抜けることができそうなルートを選び、ビルとビルの間へと飛び込んだ。裏路地に通じているのかもしれない、薄暗いそこは人々の意識から外れており隠れるにはちょうど良さそうだ。ビルの壁に背を預け、座り込む。ゴーグルを押し上げて瞳に触れてみれば、わずかに熱を持っているようだった。これくらいならばまだしばらくは義眼を使えるだろう。
 もちろんずっとここにいるわけにはいかない、ザップを探しにいかなければ。そう、ザップだ、あのひとのそばにいなければ自分はだめになってしまう、どうして離れてしまっているのだろう、一緒にいなければいけないのに、だってレオナルドはザップのことが好きなのだ、好きだから一緒にいたい、そばにいなければいけないと決まっている。
 ぐるぐると脳内を飛び交う思考が、徐々にレオナルドの制御下から外れていく。薬のせいだから、と今までなんとか押さえ込んできていたが、混乱により理性が薄れているのだ。本来の少年の意志が押し流されていく。
 ああだめだ、ザップから離れてしまえば自分はだめになってしまう、おかしくなってしまう、狂ってしまう。
 その場にしゃがみ込んだまま、少年は青ざめた顔で愛しい男の名前を呼んでいる。手を伸ばす、触れる位置に彼がいない、いない、いない、どこにも、いない……!
 見開いた大きな目からほろり、涙が零れた。

「レオッ!」

 この混乱の中で、こんな薄暗い場所に隠れているというのに、どんな手段で見つけたといのか。
 ひどく焦った様子で飛び込んできた男が、レオナルドの名前を呼ぶ。強い依存心を引き起こす薬物だ、そのくせレオナルドの気持ちをすべて上書きするわけではない。引き起こされる矛盾に沿うように、ひたすらザップを求めてしまう。下手に姿を消せば、最悪レオナルドの心がおかしくなってしまう可能性がある。ザップは上司からそのような説明を受けていた。事務所でザップが帰ろうとした際の反応、部屋でわずかな時間離れてしまったっときの少年の顔色の悪さから、それが決して冗談ではないのだ、とザップでも理解できた。

「レオ、レオッ、大丈夫だ、俺はここにいる、ちゃんといるからっ!」

 少年の前にしゃがみ込み、伸ばされかけたていた手を握り込んでやる。抱き込んだ小さな身体は気の毒なほどかたかたと震えていた。モルモット連中の引き起こした騒動を怖がっているわけではないのだろう、ただザップがいないことに彼は言葉を失い動けなくなるほど不安を覚えていたのだ。

「くそったれがっ」

 なんて薬を作りやがる。たとえ効果に期限があったとしても、こんなに強い執着を生み出しては薬を浴びた側も一目惚れをされた側もただつらい思いをするだけだ。たとえ何らかの実験過程に偶然生まれたものだとしても、あの施設は徹底的につぶさないと気が済まない。結局どうなったのか聞いていないが、あとで上司に確認しておこうと心に決める。
 険しい顔をしたまま、ザップは腕の中の後輩を落ち着かせようと言葉を重ねた。何度も大丈夫と繰り返し、ここにいることを伝える。手を握り抱きしめ、背中を摩り、その存在を教え込む。

「ざ、っぷ、さ、ざっぷ、さん……っ」
「ああ、ああ! いる、ここにいてやっから!」

 だから頼むから狂ってくれるな、ぎゅう、と己の胸に押しつけるようレオナルドの頭を抱き込んだ。恋愛という意味ではないが、後輩として同僚として仲間として、ザップはレオナルドを気に入っているのだ。こんなふざけた薬などに少年を壊させはしない。
 はっ、はっ、と荒い息を吐き出す彼の手は、ザップの上着をぎゅうと握りしめている。あまりにも必死で悲壮感漂う様子に、思わず舌打ちが零れかけたのをなんとか押し殺した。
 モルモット騒動は当然収束などしていない。武器を持った毛玉を掃除するより、レオナルドを回収するほうが優先度が高いと判断したのだ。誰かが沈静化させるのをここで待つべきか、この状態の少年を連れて騒動を抜けるのは難しいだろう、前線に出て戦うだなんてもってのほかだ。

「……っ、そうか、旦那に、連絡……っ」

 レオナルドを落ち着かせることに必死で、その手があることに思い至らなかった。ふたりで切り抜けられないのであれば、誰か助けを求めればいい。クラウスやスティーブンが動けなくとも、今日は別行動を取っていたツェッドならばあるいは駆けつけてくれるかもしれない。弟弟子に助けを求めるのは癪に触るが、背に腹は変えられないだろう。
 そう思い、端末を取り出したところで背後に不穏な気配を覚えた。振り返ると同時に血法を展開させ、太刀を構える。くそが、と小さく吐き捨てたザップの視界には、人類とあらば無差別に襲っているらしいモルモットが三匹ほど、それぞれ武器を構えて立っていた。
 レオナルドを庇うように身体の位置をずらすが、少年はまだ動けるほど回復していないようだ。状況を理解してはいるみたいだが、ザップの背に縋りつく腕はおそらく、彼の意識外で動いている。これ以上レオナルドと離れてしまうのは避けたい、小脇に抱えて動けるだろうか。あるいはこの場を動くことなく、三匹のモルモットを撃退できるだろうか。

「防衛戦っつーのは苦手なんだけどなっ」

 向けられる銃口、この至近距離で放たれたそれを受け止めきれるか。逸れてくれるだけでいい、最悪、レオナルドさえ無事ならば多少この身体を盾にしても大丈夫だろう。
 そんなことを考えながら取り出したライターをかちり、と鳴らす。
 しかし、結局ザップの炎がその場に生まれることはなく、それより先に三匹は圧倒的な力により真横へと吹き飛ばされてしまった。

「っ、だ、旦那……っ」

 代わりに姿を現したのは拳を握りしめたライブラのリーダ。無言でふたりを見た彼は、すぐに状況を察してくれたらしい。うむ、と一つ頷いたあと、こちらへと背を向ける。
 もともと体格のいい男だ。巨漢と表現できる。しかしその背中がいつも以上に広く頼もしく見え、ああもう大丈夫だ、とそう思った。
 何せ彼はおそらく怒っている。言葉はなかったけれども、ザップたちを巻きこんだ騒動に対し、その原因に対し、大きな怒りを覚えている。そのような空気がびしばしとこちらに伝わってくるのだ。

「ひとの奥さんたちに、なにしちゃってくれてんのかね」

 そんな男のあとから、やはりこちらも怒りを全面に出した人物が姿を現した。レオナルドが「聞いてるだけで赤面するほど良い声」と照れながら誉めていた声が、その技名を紡いでいるのが聞こえる。展開される氷の世界と同じほど冷えた声音。あのふたりがぶち切れているのだ、騒動はすぐに収束するだろう。
 そう思っていれば、「す、すみま、せ……っ」と腕の中から謝罪する声があった。こちらに伝わるほどの震えは収まっているようだったが、しがみつく手を離すことはまだできないようだ。胸に顔を埋めたままの後輩を見下ろし、ザップははあ、とため息を零す。

「今度は、何についての謝罪だこら」

 レオナルドはこの症状に見舞われて以来、ことあるごとに謝っている気がする。別に謝ってもらいたいわけではない、と伝えたところで、どうしたって言葉が口をつくのだろう。
 わしわしと頭を撫でるようにかき回してやれば、「だ、って、」と少年は理由を紡いだ。

「あ、あんた、どっちかって、いわなくても前出て、戦うタイプ、でしょ……」

 こんな路地裏で、荷物にへばりつかれていてはそうすることもままならない。戦う術を持った男だ、ただ守られるだけだなんて面白くないに違いない。
 自分さえいなければ、とレオナルドはおそらくそのようなことを考えているのだろう。もう一度ため息を零したザップは、「まあそりゃそーだけどさ」と少年の言葉を認めた。戦うことは好きだ、そのための力もある。それを使って飛び回っている姿を何度も見ているレオナルドには、今更否定を紡いだところで嘘だとすぐにばれるだろう。すみません、と重ねられた謝罪を無視し、「でもほら、見てみろ」と少年の後頭部をがしりと捕らえた。
 頭を上げさせ、大通りの騒動を視界に収めさせる。凶悪なモルモットたちは駆けつけたクラウス、スティーブンの手により徐々に駆逐されているようだ。クラウスの放つ拳から生み出される熱気と、スティーブンの足技から放たれる冷気が混ざりあい、暑いのか寒いのかよく分からない状態になっている。

「おめーんとこのダーリンと、うちのダンナがガチ切れしてんだ。俺の出る幕はねーだろ、これ」

 当たり前のようにそう紡いだ男は、「あとはまあ、」と口元を歪め、笑ってみせる。

「カッコつけさせてやるのも嫁の役目だろ?」

 己が「嫁」という立場にあることはひどく納得いかないし、認めたくない気持ちのほうが大きい。しかし客観的に役割を見た場合、クラウスを相手にしたザップはおそらくそう呼ばれる立ち位置にいる、と言わざるをえない、ような気もしなくはない。そもそもそのようなことを気にしてこだわってみたところで、相手は何のひねりもなく直球で好意をぶつけてくるクラウスなのだ、正直うだうだ悩むだけ時間の無駄でしかないと、この奇妙な同居を始めてようやく気がついた。
 どこか開き直ったような言葉を吐いたザップを、レオナルドは驚いたような顔をして見上げてくる。まさかそういう台詞を口にするとは思っていなかったのだろう。言ったあとからわき起こる気恥ずかしさに視線を逸らせようとすれば、ほろり、とレオナルドの大きな瞳から一度止まったはずの涙が零れ落ちた。ほろほろと透明の滴が丸い頬を濡らし、逆にザップのほうが「うぉっ!?」と驚きの声をあげてしまった。

「ど、どーした、なんで泣く!?」

 今のやりとりで、どこか泣き出すような要素があっただろうか。何か余計なことを言ってしまっただろうか。いやそもそもザップに何か言われたくらいで泣き出すような少年ではないはずだ。慌ててその頬を撫で涙を拭えば、いつものように目を細めたレオナルドがうぇえ、と声を漏らした。

「ざ、ざっぷ、さんが、ちょっとかっこよく、見えて、なんかっくやしぃいいっ」
「おめー、ぶん殴るぞ!?」


**  **


 モルモット反逆テロ事件の後始末に追われ、その日はスティーブンだけ帰宅が大幅に遅れることになった。昼間の様子からレオナルドのことが心配ではあったが、仕事を疎かにしてはとうの本人からお叱りが飛ぶであろう。きりきりと痛む胃を抑え込んで雑務をこなし、空きっ腹を抱えて部屋に戻れば、あるはずの出迎えがない。時刻は夜十時を回っており、もう眠ってしまったのだろうか、と思いながらスティーブンはリビングの扉をくぐった。
 ひとの気配はある、ソファに腰を下ろしたクラウスの姿が見えた。ザップはこちらに背を向けて座っている。口を開く前に人差し指を立てられ、言葉を制された。何事かと眉を顰めて歩み寄れば、ザップの膝の上に抱えられた小さな身体が目に入る。

「……寝てるのか」

 スティーブンの呟きにクラウスがうむ、と首を縦に振った。

「昼間の件をまだ引きずっているのかもしれない」

 スティーブンはその場で簡単な報告しか受けていないが、先に帰宅したクラウスはあのときレオナルドがどうなっていたのか、ザップから聞いたのだろう。人工的に植え付けられた感情により、レオナルド本来の心がどれほど揺さぶられてしまうのか。
 夕飯を取り、片づけをし、途中まで少年はとくに問題なく過ごしていた。何がきっかけとなったのかは分からない、面白いテレビもとくにないから、と持ち込んだゲーム機でザップと遊んでいる最中のことだった。

「スティーブン、さん、遅い、ですね」

 紡がれた声が弱々しいことに気づきその顔を覗き込めば、昼間見たときと同じほど彼は真っ青な顔をしていた。クラウスとともに大丈夫だ、と言い聞かせたが、レオナルドが落ち着く気配がない。スティーブンもまだ戻ってくる様子がなかったため、とりあえず彼を抱き上げ赤子のようにあやしているうちに眠ってくれたのだ。

「君に連絡をしようと思っていた」

 そう言うクラウスの手には確かに端末が握られている。恋人である男がそばにいれば、レオナルドも落ち着けると考えたのだ。

「言葉に脈絡がなく、錯乱状態だった。ザップから離れるのが怖いと、しがみつきながら、それが己の本意ではないことも分かっているようで。悔しさともどかしさと恐怖で、頭のなかがぐちゃぐちゃになっている、と」

 レオナルドが紡ぐ言葉は支離滅裂で、意味を取ることが難しい。ただその中でも取り分け多く、ごめんなさい、という謝罪が繰り返されていた。

「俺、旦那、番頭で、1対3対4くらいの割合っすね。俺に対する謝罪が一番少ねーのはどーいうわけだっつの」

 レオナルドが申し訳ない、と謝る相手は、今この場にいる三人である。薬のせいとはいえ、依存してしまってごめんなさい、恋人を独占するような真似をしてごめんなさい、恋人ではない相手にしがみついてしまってごめんなさい。謝る必要はないと言っても、レオナルドには謝ることしかできないのだ。そしてクラウスたちには悲痛な少年の言葉を、ただ聞くことしかできない。
 眠ってくれて良かった、と安堵したように言うクラウスへ、「そうだな、」とスティーブンもまた頷いて答えた。部下の膝の上に抱き抱えられたままの恋人へ手を伸ばし、ゆるりと頭を撫でる。

「すまなかった、ありがとう」

 仕事があったとはいえ戻るのが遅れ力になれなかったことに対する謝罪と、レオナルドのことを心配し、気遣ってくれたことに対する謝礼。ごく自然に零れた二つの言葉に、褐色肌の男が驚いたように目を見開いてスティーブンを見上げてきた。礼を言ってそのような顔をされる謂われなどない。眉間にしわを寄せれば、「いや、」とザップは気まずそうに視線を逸らせる。

「嫌味言われるか、殴られるくらいは覚悟、してたんっすけどね」

 スティーブンが年の離れた恋人を溺愛しているのは目に見るより明らかだ。たとえどのような事情があろうと、恋人と別の男との接触を前に(しかもその相手は常日頃どついている部下だ)まさかこんな穏やかな顔で笑うなど、想定していなかった。
 素直に紡いだ言葉へ、「まあ腹は立つ」とこれまた飾らない言葉が返される。憮然とした表情で、これもまた彼の本音であるのだろう。ただでも、とスティーブンは再び視線をレオナルドへと下ろした。

「今一番きついのはどう考えてもレオだ。この子が泣きやんでくれたら僕はそれだけでいいよ」

 泣きやませる役はすべて自分が、などと贅沢は望まない。そもそもそれが不可能であることを、スティーブンは知っているからだ。人間関係というものはそう簡単に割り切れるものではない。多くのひとたちと関わりを持ちつつ、それでも最終的にお互いに手を伸ばして触れあい、抱きしめあえる位置にいたいとそう思う。
 シャワーを浴びてくる、と脱いだジャケットを手にして言ったスティーブンへ、「食事は?」とクラウスが声をかけた。

「や、食べてなくて。何かある?」
「もちろん。君の分が残っているから温めよう」
「ああ、いいよ、自分でやるし」
「私だってそれくらいはできる。疲れているだろう? 早く汗を流してくるといい」

 立ち上がってキッチンへ向かうクラウスの行動を止めることはできなさそうだ。それなりの家柄に生まれた男であり、身の回りの世話をひとに任せる生活が長いはずなのだが、他人が彼に抱く印象ほど何もできない人物ではなかった。今日の朝など、レオナルドと一緒に洗濯物を畳んでいたくらいだ。秘密結社のリーダの所帯じみた姿に、思わず額を抑えたものである。ただそのときまだ惰眠を貪っていたクズに比べれば、おそらくクラウスのほうがこういった姿は似合うだろうとも思った。

「じゃあ頼むよ」

 気の優しい男は、ひとのために動くことが好きなタイプだ。小さく笑ってそう言えば、クラウスは嬉しそうに頬を綻ばせた。
 バスルームへ向かった男を見送り、眠る後輩の背中を緩く撫でながらザップはふぅん、と言葉を零す。

「番頭、あんな顔、できるんじゃん」

 ザップの知るスティーブンという男は、つかみ所がなく、隙のない上司であった。怒ったり驚いたり慌てたり笑ったり、と表情の変化は乏しくないが、それでもあんな風に穏やかな笑みを浮かべたのは見たことがなかった。そもそも恋人などという存在を作るタイプだとは思っていなかったのだ。(この点においては、ザップもひとのことは言えないかもしれないが。)目的のためには手段を選ばず、弱点になると分かっていて大切なものを作るだなんて愚の骨頂だ、くらいは言う男だろうと思っていた。そういう雰囲気があるからこそ、K・Kから「腹黒い」と罵られているのだろう。
 そんな男がどうだ、十以上も離れているだろう恋人に骨抜きにされ、そんな己を厭う様子もみせず開き直って愛を注いでいる。

「心からレオナルドを愛しているのだろう」

 ザップの独り言を聞きとめたクラウスが、キッチンからそう言葉を放った。衒いもせずにその手の台詞を吐き出せる感覚は、やはり未だに慣れることができない。彼の場合、からかう意図はまるでなく、そう信じての言葉だと分かるからなおさらだ。そのうえ。

「私も、君への気持ちは負けていないつもりだが」

 こんな台詞を続けてくるものだから。
 どでかい拳でまっすぐに殴りつけられ、逃げる場所は見あたらず、受け止めることもできず、圧倒的なパワーで吹き飛ばされたザップにできることは、ただひっくり返って白旗をあげるだけ。

「……いいから、そういうのは」

 弱々しくそう言って赤くなった頬をごまかすようにレオナルドの頭に顔を埋める抵抗くらい、許してもらいたいところである。




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2016.07.20