漆黒の海に沈む黄金の星・4


 ヤンガスたちが泊まっている宿へゼシカが飛び込んできたのは、明け方のことだった。

「お願い、二人とも起きてっ! エイトが、エイトが大変なのっ!!」

 ドンドンと扉を叩く音に混ざっての叫び声に飛び起きたククールが部屋を出ると、そこには慌てて来たのだろう、髪も服装も乱れたゼシカが泣きながら立っていた。

「ねぇ、エイトが、エイトが……! 私、どうしていいのかっ!」
「お前はヤンガスを起こしてから小屋へ来い。オレは先に行ってるから」

 ゆっくりとゼシカの頭を撫でそう声をかけてから、ククールはいまだ姿を現さないヤンガスの部屋のドアを蹴りつけた。

「メラくらい打ち込んでもいいぜ」

 そんな物騒な言葉を残して宿を出ると、すぐさまルーラを唱える。


 たどり着いた小屋の中で見たものは、漆黒に浮かぶ二つの金色の瞳。
 既にそこにいるものは、人の形をしていなかった。

 このまま元に戻す方法が見つからなければ、いつかはこうなると思っていた。覚悟も決めていたつもりだ。しかしやはり、この現実は直視するにはあまりにも残酷過ぎる。
 昨夜までは確かに人の形を失いつつはあったが、それでもまだ彼は人間だった。人の言葉を喋り、表情を浮かべていた。
 だが今ククールの目の前にいるものは、どう考えても人ではない。人ではありえない。

「……っていうか、これ……」

 手足の指は長く尖った爪、硬い肌に覆われたその体躯はエイトであったときの三倍以上あるだろうか。長い尻尾と、背中の羽。

 ようやく追いついたらしいヤンガスたちが小屋へと入ってくる。ヤンガスが言葉を失った気配を背後に感じながら、ククールは「これ、魔物じゃねぇよ」とぽつりと呟いた。

「黒竜だ」


 実際に竜を見たことがあるわけではない。そもそも竜、ドラゴンと呼ばれる種族は既に絶滅したと伝えられている。しかしそれでも今目の前にいるものは、ドラゴン系の魔物とは明らかに趣きを異にする存在だった。ドラゴン系の魔物とよく似てはいるが、それではない。かといって他の種類の魔物とも違う。
 だとしたらあとは、そのドラゴンそのものであると考えるほかないのではないだろうか。

「兄貴……」

 ヤンガスが腹のそこから搾り出したような声で、目の前の黒竜を呼ぶ。しかし言葉が届いていないのか、届いていても理解していないのか、黒竜の金色の目は虚空を見つめるだけでこちらへ向けられることはない。

「エイト、エイト……」

 泣きながら名前を呼び竜へ向かって手を伸ばすゼシカ。そっと触れてみるものの、やはり黒竜の意識はこちらへは向けられなかった。側でトロデ王が呆然とその竜を見上げ、扉から内側を覗き込んだミーティア姫が悲しそうな鳴き声をあげる。
 そんな中、悲痛に包まれた空間を裂くように、ダンッと壁を殴る音が響いた。

「……まだだ」

 何事か、と一斉に皆がそちらへ視線を向けると、唇を噛み、眉を寄せたククールが苛立ちを紛らわせるかのように拳を壁へ叩きつけている。

「まだ、オレは諦めねぇ」

 ギリ、と音がしそうなほど噛み締められた奥歯の隙間を縫うように、吐き捨てられた言葉。「諦めてたまるかよっ」と、ククールはそのまま小屋を後にした。
 彼に続いたのはぐっと涙を拭ったゼシカ。

「ヤンガス、あなたと王さまたちはここにいて。エイトの側に」

 そう言って、彼女も小屋を出て行った。
 まだ諦めるのは早い。せめて原因が明らかにならないことには、諦めるのは早すぎる。
 このままエイトの顔を見ることができなくなるなど、声を聞くことができなくなるなど。
 納得できるはずがない。



 あの日、エイトの異変に一番初めに気が付いたのはククールだ。やはり船の上で彼の目が一瞬だけ金色に輝いたのは見間違いではなかったのだ。
 ざくざくと乱暴に草を踏み荒らしてククールは足を進める。目的地があるわけではない、しいて言えばもうマイエラは調べつくしたので、トロデーンにでも飛ぼうかと思っていたくらいだ。

 あの日に何か、切っ掛けがあったはずなんだ、あの日は確か……

 魔法の鏡を手に入れて、西の森へ魔法使いを訪ねていった。そしてその後に。

 不思議な泉……!

 思い当たると同時にククールはルーラを唱えていた。

 もっと早くここにたどり着いても良かったかもしれない。もう少しエイトの変化が始まった日のことを反芻していれば。反省や反芻は聖職者の得意技だが、エイトの変わりように戸惑いが大きすぎたらしい。自分もまだまだだな、と思いながら、泉の脇へと降り立った。

 泉の水は呪いを解く力がある。もしこの水を飲んだことが原因なら、エイトの変化は呪いをかけられたわけではなく、呪いを解かれた、ということか。あいつには何かは分からないけれど呪い、あるいはそれに似たような魔法がかけられていた。泉の力でそれが解かれ、エイトは本来の姿を取り戻した……?

 そこまで考えてククールは首を振る。どちらが本当の彼であるのかなど、この場合問題ではない。考えなければならないのは、どうすれば以前の、小憎らしい口を聞く脳味噌の足らないエイトへ戻るのか、ということ。たとえそれが呪いを掛けられた偽りの姿であっても構わないのだ。ククールたちにとってはそれこそがエイトなのだから。

 ただ、もし水によって呪いを解かれたとしても、効果が遅効性すぎるな。

 ミーティア姫はその場で呪いが解けた。それだけエイトにかけられている(かもしれない)呪いが特殊であるということか。泉の水を掬っては戻しながら考え、ふと、思い至る。

 待てよ、もしミーティア姫と同じくらいに強い呪いだとすると、水の効果が切れると同時にエイトは元に戻るかもしれない……?

 効果の現れ方に違いがあるため、その消え方にも差異が出ると考えるのが普通だろう。だからその考えに飛びつくのはあまりにも単純だ。しかしそれでも、今のククールにはその考えに縋るほかなかった。
 そういえば、と銀髪を翻し立ち上がる。ゼシカにたたき起こされたその姿のまま飛んできたため、いつも羽織っている赤い上着もマントも宿に置いたままだ。髪を結わえるリボンも手元にない。
 さらり、と流れた自分の髪の毛へ目をやって、思い出す。エイトはよくククールの髪を触っていた。子供がお気に入りのおもちゃを手元に置きたがる要領で、ククールの頭を胸元に抱きこみたがった。「この方が髪の毛に触れるから」というのがエイトの言い分。
 彼がそういうから、好きでも嫌いでもなかった銀髪を少しだけ好きになれたと、思ったのだけれど。

 泉に背を向け、ククールはそのまま近くにある魔法使いの家へと足を運んだ。泉での出来事を思い返しているうちに、ふと思い出したのだ。そういえばあの時、ここに住む盲目の魔法使いは白馬を「高貴な姫」と確かにそう呼んだ。目が見えぬため、逆にその人物の本質を見抜けるのだと、彼はそう言っていたが。
 その魔法使いに今のエイトを見てもらったら、どう映るのだろうか。
 ちょっとした疑問、これで何がどう変わるというわけでもない。高名な魔法使いらしいから、もしかしたら呪いの知識もあるかもしれない、という期待も一割ほど。

 まだ早い、か。せめて起きてくるまで待った方が良いな。

 そう思い、ノックをしようと挙げた手を大人しく下ろす。時間を潰すついでに魔道書でも探そうかと、ルーラを唱えかけたところで不意に、扉が開く音が耳に届いた。

「待ちなさい。わしに会いに来たのではないのかね?」

 そこには盲目の魔法使いが、以前会ったときと同じたたずまいで立っていた。

 朝早い訪問(何せまだ夜が明けきっていない)を詫びつつ、会って欲しい人物がいる、と頼む。往復は自分が送るから、と申し出ると、魔法使いは快く承諾してくれた。

「会ったところでわしには何もできぬかも知れんぞ?」
「いや、それでもいい。とにかく、あんたに見てもらいたいんだ」

 そう言って、ククールはエイトがいる小屋へと魔法使いを案内する。小屋の側には白馬ミーティア姫とトロデ王。薄暗い中には瞳を除く全身に闇を湛えた竜と、ヤンガスの姿。おそらくゼシカに言われてエイトへと付き添っていたのだろう。ヤンガスの「あんたは……」という台詞を手で制して、ククールは魔法使いをエイトの前へと導く。
 ちょうど竜となったエイトの真正面に立った彼は、「おお、お前さんは」と口を開いた。

「この間の少年じゃな。どうした、前はあれだけ喋っておったのに、今日は静かじゃの」

 ほっほ、と朗らかな笑い声をあげる魔法使いは、おそらく気づいていないだろう。今の彼の言葉がククールとヤンガスにとってはどれほど救いとなったのか。ゼシカに伝えても同じほど喜ぶだろう。
 やはり、エイトはエイトなのだ。姿が変わろうと、彼に変わりはない。
 もちろんククールたちもそう思っていたが、目に見える姿に惑わされてしまう上に、エイトの変化の原因がつかめない状態なのだ。その思いは突けば崩れてしまうほどもろいものだった。

「何か困ったことでもあるのかの? 大丈夫じゃ、お前さんには心強い仲間がおるのじゃろう?」

 魔法使いの言葉にも、黒竜は無反応だ。しかしそれでも良いらしく、彼は満足そうに笑っていた。
 外で待っていたトロデ王たちへ後で話をすると言って、約束どおり魔法使いを西の森の自宅へと送り届ける。
 その間、一応今自分たちに降りかかっている災難のことを伝えておいた。

「何、漆黒の竜、とな?」

 さすがに竜に変化しているとは思っていなかったらしく、魔法使いは驚いたように声を上げる。

「ふむ、そうか、そうじゃったのか。いや、何、外では竜は絶滅したと言われておるが、どこかで生き延びておると唱える学者もおる。黒竜が現れても不思議はないじゃろう」

 そう言ってしばらく考えた後、更に彼は続けた。

「以前あの少年と会ったときも、やはり彼は彼のままだったのぅ。少し変わった気配をしておると思っていたが、今日会ってもそれは変わらなんだ。確かにあの少年には何か不思議な力、そうじゃのお前さん方の言う『呪い』が掛けられておるのかもしれぬ。泉の水がそれを解く切っ掛けになったというお前さんの考えも正しいじゃろう。
 しかしの、あの少年、そうか、エイトという名なのか。わしから見れば、見えぬのに見れば、というのもおかしいがの、エイトは少しも変わっておらぬよ。
 だからもしこれから先エイトの姿が以前と違うままであったとしても、お前さん方がしっかりとしておれば大丈夫じゃ。周りの人間が元に戻って欲しいと願い、本人もそう願っておるのなら、いつかは戻れるじゃろう」


 周りの人間が元に戻って欲しいと願い、本人もそう願っているのなら。



 そこが大きな問題だ。




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2006.07.22