激情の終着点・6


 物の名前を覚えることは簡単だった。これがリンゴ、あれが飴玉。バラ、ペン、紙、本、オレンジ、コップ、机、猫、ミーティア姫、牛、剣、トロデ王。
 赤色、黄色、橙色。空は青く、夕焼けが赤い。ミーティア姫の髪の毛は黒い。
 飴玉は甘い、唐辛子は辛い、オレンジはすっぱい。
 数を理解するのに時間が掛かった。どうして同じリンゴなのにリンゴと呼ばずに「一つ」と呼ぶのかが分からず、しばらくは混乱した。けれどリンゴでもオレンジでもトマトでも、一つは一つということに気が付いてからは早かった。一つ、二つ、三つ、四つ。二つは一つより一つ多い。三つは四つより一つ少ない。「零」は何もないこと、何もないとはつまり「無」。これはおそらくあの瞬間のことをいうのだろう、とエイトは理解する。エイトがこの世に生まれたあの瞬間。そのときエイトの中には何もなかった。言葉も、概念もなかったから思考もなかった。それを「無」と呼ぶ。

 ほどなくして言葉を話せるようになったし、文字も読めるようになった。簡単な計算もできるようになったし、歩いたり走ったりボールを投げたり、運動もできるようになった。「すっかり元気になったわね」と言われたので、「元気」とは周りと同じことができるようになることだと理解した。

「あなたは陛下と姫さまに拾っていただいたんだから、感謝を忘れちゃ駄目なのよ」

 そう言われ続けたので、そういうものなのだろうと思った。二人に拾われなければ自分はあのまま死んでしまっていたらしい。自分が死ぬことが大きな問題だとは思えず、どうしてそれを感謝しなければならないのか分からなかったが、そうしろと人が言うからにはそれが当たり前なのだろうと思っていた。
 たくさんの言葉を覚え、たくさんのことが出来るようになった。
 それでもなぜか、感情だけはなかなか理解できなかった。嬉しいときに笑う、笑い顔がどんなものなのか、真似をすることは出来る。何時間も鏡を見て、絵本を見て、練習を繰り返した。

「そう、それが笑顔」

 にっこり笑うと、おばあさんも同じように笑ってくれた。そうすると心がほんわかするような気がした。その「ほんわか」が「嬉しい」ということなのだろうか、とも思ったが、べつにおばあさんが笑わなくても「ほんわか」することがある。おばあさんが笑っても「ほんわか」しないこともある。
 ただ、「ほんわか」しないよりはした方がいいので、笑っていればいいのか、とそう思った。



「……だから、笑って、たのに……」



 眠っていると思っていたエイトが、ぽつり、とそんなことを呟いた。心配はないだろうということだったが、念のために付き添っていたククールが、目を落としていた本から顔を上げてベッドを見やる。「エイト?」と呼びかけるも、返事はない。寝言だろうか。しおりを挟んで本を閉じ、そっとベッドへ近寄った。
 覗きこむとエイトの目は薄っすらと開いており、どうやら夢と現の間をふらふらとしているらしい。
 夢でも見ていたのだろうか。
 考えて、先日エイトが激昂した折に言っていた言葉を思い出す。

「ばあさんの葬式で、か?」

 面倒を見てくれていた人間の葬儀で笑い、散々殴られたのだ、と彼はそう言っていた。
 尋ねるとこちらの声が届いているらしく、エイトは小さく頷く。

「人が、死ぬ。悲しい。だから、俺も悲しい」

 そもそもその文章を「だから」という接続詞で繋げること自体がおかしいのだ。もちろん上手く生きていくためにはある程度他人に合わせることも必要だろう。そう、今のエイトのように、皆が好む方を好み、嫌う方を嫌えば余計な衝突は避けることが出来る。
 しかし己の根底も含めた全てをそれによって判断していいものか、いや、することができるものかどうかが、ククールには分からなかった。「なぁ、エイト」とうつらうつらしている彼を呼ぶ。

「お前さ、メディさんが死んだとき、悲しかったか?」

 ククールの言葉に、エイトは先ほどと同じように小さく頷く。そして「人が死ぬこと、悲しいこと」と呟いた。やはりな、と思う。ククールが考えていたとおりの答え。もうエイトの中にはそれでインプットされてしまっているのだろう。だから彼にはそれ以外の答えが用意できない。これが一つ目の違和感。

「じゃあさ、エイト」

 ゆっくりと目蓋を閉じたエイトへ、ククールはもう一度呼びかける。

「お前に『関係ある』ことって、何?」

 二つ目の違和感。
 オークニスで家族や恋人を「関係ない」と彼は切り捨てた。
 そして船の上でも同様に「関係ない」と切り捨てた。
 そのときはエイトが倒れてしまったのでそのまま流してしまったが。
 ふるり、と横に振られたそれは「分からない」の意味なのか、それとも。
 奥歯を噛んで、ククールはエイトの頬へ手を添えた。

 眠ってしまえばいい、とそう思う。小さな頃に彼がどのような状況に置かれていたのかは分からない。けれど彼から聞く限り、かなりの苦労をしてきたのだと思う。「普通」であるために必死で努力してきたのだろう、今も必死で努力しているのだろう。
 もういいのではないか、とエイトを見ると思う。もういいから少し何も考えずに生きてみたらどうだろうか、と。人がこうするからとか、誰かに怒られるからとか、そういうことを気にせずにいたらどうだろう。
 代わりに、と今までエイトに触れていた手をぐっと握り締める。
 代わりに、彼の周りの人間が彼のことを考えればいい。そうすればまた違うことに気づけるかもしれない。エイトが頑張らなくても済む方法が見つかるかもしれない。

 ククールはそっと部屋の扉を閉めて廊下へ出ると、そのまま宿の外へと向かう。既に夜も大分更け、月が頭上にのっぺりと張り付いていた。
 宿屋の側にあった酒場でワインを一本買い求めると、それを土産に向かった先は、町の外にいるトロデ王のもと。エイトがあの調子なのでトヘロスはできなかったが、代わりに聖水を大量にばら撒いてある。城壁の影に隠れるようにして眠るミーティア姫が目に入り、そちらへ近づくと物音を聞きつけたのか、荷台からひょっこりとトロデ王が顔を出した。
 月明かりに光る銀髪を目に留め、「珍しい客じゃの」とトロデ王は笑う。ククールが掲げたワインを見ると、いそいそとグラスを二つ、取り出してきた。
 荷台のふちに腰掛けたトロデ王の正面の地へとさり、と腰を下ろし、差し出されたグラスへワインを注ぐ。

「それで、何を聞きたいんじゃ?」

 もちろん話があるからわざわざ足を運んだことくらい、トロデ王も分かっている。ゆらりとグラスを揺らして香りを楽しんだ後、彼はそう言ってククールを見た。

「エイトの小さな頃のことを」

 誤魔化すつもりはもとよりなかった。きちんと嘘偽りない情報を手に入れないことには、これからの対処が決められない。
 真っ直ぐにこちらを見てくる青い目に、トロデ王はもう一度のどの奥で笑う。斜に構え、ひねたところのある青年ではあったが、彼はもともとの性質はとても真っ直ぐだ。普段のそれは、筋の通らない現実に嫌気が差していたからこその、捻くれた態度だったのだろうと思う。
 気持ちのいい目だ、と素直に感心する。移り気なところさえなければ、聖職者として申し分ないだろう。
 そんなことを思いながら一口、ワインを喉へ落とすと、トロデ王はほう、と息を吐き出した。

「エイトの幼い頃、と言ってもわしが知っておるのはあやつを城へ引き取ったあとのことぞ?」
「そこが聞きたいんだ。あいつを拾ったとき、どんな感じだった?」
「どんな、とは?」
「記憶がなかった、って言ってたけど、具体的にはどこまで忘れてたんだ? いや、どこまで覚えてたのか、って聞いたほうがいいのかな」

 首を傾げながらそう言って、ククールもこくり、とワインを口に含んだ。

「そうじゃのぅ。わしもこれでも国王での。エイト一人に時間を割いてやることはできなんだ。人から聞いた話になるぞ?」
「それでもきちんと報告を聞いてるんだろ? それでいい」

 もちろん、あのように何もない草原で一人、ぽつんと立っていた少年が気にならないはずがない。それが記憶を失っているようだ、と聞いてからはなおさら頻繁にエイトについて報告させるようにした。

「名を聞いても年を聞いても答えもせぬ。耳が聞こえぬわけでもないようじゃったから、言葉が分からなかったのじゃろう。しばらくは言葉を教えるのが大変じゃった、と聞いておる。それでもすぐにあれは普通に話せるようになったの。言葉さえ話せれば普通の子供と変わらぬ。ただ少し、妙なところはあったが」
「妙なところ?」
「うむ。今日話したじゃろう、眠らぬということもじゃが、エイトは始め食事も取れなかったらしい。出された食事を目の前にずっと座っておる。口元へ運んでも口を開けようともせん。当時あやつを任せておった者が試しに食べてみせて、そこでようやくエイトも食べたそうじゃ」

 毒を盛られるとでも警戒しておったのかの、とトロデ王は言うが、それは違うのではないだろうかとククールは思う。
 おそらくエイトは忘れていたのだ、『食べる』という行為さえも。
 そもそも一言で記憶喪失といっても程度の差がいろいろある。単に自分や人の名前といった固有名だけを忘れてしまうものや、それプラス一般的名称全てを忘れてしまう場合もあるだろう。計算の仕方を忘れてしまう、扉の開け方を忘れてしまう、フォークの使い方を忘れてしまう。
 エイトの場合はその喪失が深すぎた、ということなのだろうか。

「エイト、そのとき何歳くらいに見えた?」
「そうじゃの、ミーティアと同じくらいじゃったから、七、八歳といったところか」

 普通の八歳といえば既に一人で大体のことができてしまう歳だ。言葉も話せるだろうし、食事や睡眠だって自分でその欲求を口にできる歳。

「あやつを見つけたときは驚いたのぅ。何もない場所で一人、わぁわぁ泣いておったのじゃから」

 懐かしそうに目を細め、トロデ王がぽつりと言った。それを聞きつけ、ククールが小さく首を傾げる。

「泣いてた?」

 泣く、などエイトからは程遠い行為のように思える。トロデ王は「うむ」と頷いて、口を開いた。

「泣いておったの。まるで、赤子のように」

 彼の言葉に、ククールの中ですとん、と腑に落ちたものがあった。今までごちゃごちゃしていたものが一列に並び、すっきりしたような、そんな感じ。
 残っていたワインをぐっと一気に煽ると、空になったグラスをトロデ王へ押し付けてククールは立ち上がった。

 月の明かりを纏った風に銀髪を靡かせたまま、彼は呟く。

「そりゃ『まるで』じゃなく、そのまんま、赤ん坊、だったんだよ」




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2006.09.08