激情の終着点・7 ちなみにエイトが言葉を話せるようになったのはどれくらいか、と問うたところ、トロデ王からの返答は「一月もせんうちにわしとミーティアの名前は言っておった」ということだった。 「おかしく育つわけだ」 トロデ王と別れ、再びエイトが眠る部屋に戻ってきたククールは、一人そう呟く。 実際にエイトがどのように育てられたのか見ていないため、憶測でしかない。しかしトロデ王とエイトの話を聞いていると思う。 エイトに対し一番初めに必要だったのは言葉を教える先生ではなく、微笑みかけ優しく抱きしめる母親だったのではないだろうか、と。 エイトには記憶がないという。どこをどうして記憶をなくしたのかは分からないが、それは物の名前や計算方法といった単純な記憶だけでなく、より根本的なものさえも彼はなくしていたのではないだろうか。つまり草原の中で泣いていたというそれは、姿のままの八歳の子供ではなく、何も知らない零歳の赤ん坊だったのだ。 生まれたばかりの赤ん坊に無理に言葉を教えるだろうか。葬式で笑ったからといって殴ったりするだろうか。 答えは否だ。 いつ何の書物で得た知識かは忘れたが、人間が「自己」を認識するのは母親に話しかけられたときらしい。生まれたばかりの赤ん坊に「わたし」という概念はない。しかし人は成長するにつれ「わたし」と「わたし以外」を明確に区別できるようになる。それにはまず「わたし」という概念をしっかり持たなければならないが、そのために必要な第一ステップが「話しかけてくる他者」と「話しかけられているわたし」という構図なのだ、と。 今「あなた」に対し話しかけている存在がいること、話かけられている「あなた」(赤ん坊の側から見れば「わたし」)がいることをまず理解してもらわなければ話にならないのだ。もちろんその「話しかけてくる他者」というのは母親のこと。母の腕に抱かれて優しくあやされ、微笑みかけられ、そういった過程のなかで赤ん坊は「わたし」を確立する。 エイトの場合、そのステップを見事なまでにすっ飛ばしている。いや、おそらく彼が肉体的にも赤ん坊であったときにはきちんと為されていたのだろう。しかし何が原因か、エイトはそれをすべて忘れ去ってしまっていた。 「話しかけてくる他者」と「話しかけられているわたし」の違いを理解する前に言葉で持って諸物を教えられてしまったものだから、本来なら言葉を覚える前に知るべきである概念的なもの(それは「自分」であったり「感情」であったり)を、上手く理解できていない。 つまりはそういうことなのではないだろうか。 もちろんこれはククールの推測で、正しいのかどうかは分からない。ただの屁理屈でしかないのかもしれない。 しかし、そう考えればエイトへの違和感が大体説明がついてしまう。 本能的な欲求を捕らえきれないのも感情を上手く捕らえきれないのも、それらより先に「言葉」という具体的なものを与えられてしまったから。そして「自己」というものを上手く理解できていないから。眠たいと思っている自分、嬉しいと思っている自分を上手く理解できていないから。 更にそのせいで世界と自分との関係を理解できない。恋人も友達も世界も自分に関係のあることとしてみることができない。 前者だけだったのならまだ手の打ちようがあった。本能も感情も彼に備わっていないものではない。確かに言葉では表しにくいし、言葉で教えられるようなものでもないが、もともと完全に理解している人間もいないだろう。「こんな感じ」という漠然とした指針だけでも彼に示すことができるだろう、と思っていた。 しかし「自己」や「自我」といったものは、そもそも人によって教えてもらえるものではない。「他者によって教示された自我」など「限りのある自然数」や「割り切れる無理数」と同じくらい不自然だ。もともとの言葉の意味に反する。 だからおそらく、これからどれだけ周囲が努力しようとも、エイトの自分に対する認識は変わらないだろうと思う。それが彼の「自我」なのだ。そう確立してしまっているのだ。今更ひっくり返せ、といったところで無理な話。空に浮かぶ星に対し、「今日から海の底で輝け」と言ったところでできないのと同じこと。 星が空にあるように、海に塩水が満ちるように、彼にとって世界は常に彼には無関係であり、彼の中で彼自身は世界から常に切り離された存在なのだ。 周囲の努力如何によって彼自身が「楽しい」と思えたり、「悲しい」と思えたり、「眠たい」や「お腹が空いた」と言えるようになることは可能だろう。もしかしたら「好き」だと思う相手もできるかもしれない。 しかし。 エイトは世界の中に自分を当てはめることができない。誰かに大切に思われている自分や、嫌われている自分が想像できない。そういった存在は、端からいないものとしている。 つまりは、誰かに愛されている自分というものを彼は全く理解できないのだ。 「…………あー、ってことは、オレって永遠に片思い?」 なんとなくふと思い、思わずほろりと言葉が溢れる。 もしかしたら自分はエイトのことが好きなのではないだろうか、と。 そして同時に痛感する。 この想いが叶うこともないだろう、と。 恋愛というものは想い想われていることを互いに認識して初めて成立する。 たとえエイトがククールを好きだと言ってくれたとしても、 ククールがエイトを好きであることを、彼は理解できないのだ。 誰かに取られる心配がない代わり、決して自分のものにもならない。 「せつねー……」 ぽつり、呟かれた言葉がもしエイトの耳に入っていたら、彼はどんな顔をするだろうか。 すやすやと眠っている彼の頬へそっと唇を落とし、ククールは大きく溜息をついた。 *** 「ごめーわくおかけしました、すみません」 翌朝、しっかり眠ったためか完全に回復したエイトが、メンバを見回してしおらしく頭を下げた。確かに今回の足止めは彼の自己管理がなっていなかったせいであるため、謝罪も当然だろう。 「色々気になるのは分かるけど、しっかり寝なきゃ駄目よ?」 「そうでげすよ、兄貴。悩み事があるならアッシで良けりゃいくらでも聞くでげす」 そう言う仲間二人へエイトは「ありがとう」と笑みを浮かべた。 二人とも心労からくる睡眠不足だったと信じて疑っていないようだ。普通はそれ以外の原因など考えつかないだろう。エイトもそれを否定するつもりがないのか、「最近色々あったからさ」と苦笑を浮かべている。 「とりあえず大事がなくて良かった、ってことにしとこうぜ」 ククールの言葉に他のメンバが笑顔で頷く。 もともと長い旅なのだ、一日二日の足止めでどう変わるわけでもない。ひとまずは先に進むことが先決だ、と外に待機していたトロデ王と合流し、サザンビークから更に東へ行った海岸に止めてある船を目指す。 その途中、先を歩くエイトの肩へククールの手が伸びる。そのまま軽く背を押して歩みを速め、後ろに続くほかの仲間たちから不自然でないペースで離れると、こっそりと彼に囁いた。 「お前、今度から宿では必ずオレと同じ部屋な」 どうしてわざわざそんなことを言ってくるのかが分からず首を傾げたエイトへ、「したら寝るの忘れたりしないだろ」とククールが言う。彼の言葉にエイトは驚いて目を丸くした。 「どうせあれだろ、自分が眠いのかどうか分からなくて、まいっかって思ってたんだろ」 自分の考えが正しいのかどうか分からず鎌をかけるようにそう言うと、エイトは「うー」とうなったあと「……バレ、てた?」と首を傾けた。 やはり、とククールはこっそり溜息をつく。 「いや、なんかずっと一人だったからさ、今まではほら、大体ククールかゼシカが一緒の部屋だったから、二人が寝るの見て俺も寝なきゃ、ってね」 それでは、ククールが部屋を空けた夜などはどうしていたのだろう。ふと疑問に思ったが考えないようにして、エイトの頭をぐりぐりと撫でる。 「安心しろ、今度からちゃんと毎晩ベッドに押し込んでやるから。希望なら添い寝もしてやる」 「毎晩って……そんなことしてたらククール、女遊びできねぇじゃん」 エイトの言葉にククールは「もうどうでもいいよ、そんなこと」と笑みを浮かべた。 「それよりもまずはエイト。お前、人と違う反応するの、嫌なんだろ? 違うときは違うって言ってやる。寝るのだって飯食うのだって忘れないようにしてやる。全部面倒みてやるよ」 おにーさんに任せなさい。 軽くそう言ったククールへ「何それ」とエイトは呆れたような顔をする。そんな彼へ小さく肩をすくめ、「何ってもちろんプロポーズ」と嘯いておいた。 ←6へ・結へ→ ↑トップへ 2006.09.09
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