竜と人間の恋の歌・2〈Side-E〉




「…………なんだったんだ、あの子」

 せっかくここまで登ってきたというのに、ろくに会話もできなかった。というか彼女の声すら聞くことができていない。言葉を理解できていなかったわけではないだろう。魔法が使えるということは口が利けないというわけでもないと思うのだが。
 背中の半ばまで真っ直ぐ伸びた金髪に、くるり、とした大きな目。大人びた顔つきをしている割に、幼い子供のような表情をしていた女性。見たところ、自分よりも二つか三つくらいは年上であったように思う。

「尖った耳、か。そんな種族、あったかな」

 数メートルの落下のせいでしたたかに打ちつけた背中をそっとさする。今は痛みもなく、おそらく明日以降あざが残るということもないだろう。彼女が治癒魔法をかけてくれたおかげだ。
 人間ではないのは確か。そして魔物でもない。
 とても面白い存在を見つけてしまった。
 にまり、と口元が歪む。
 もともとこの場所は来ようと思って来た場所ではなかった。移動魔法で実験をしている途中にたまたまたどり着いたのだ。あまりにも綺麗に町を見ることができる位置だったので、また来ようと思って目印を残していた。

「あ、結局返してもらい損ねた」

 彼女がぎゅうと握りしめていたものは、以前ここに来たときに枝にかけておいた木片だろう。代わりはいくらでも作れるので無くなったところで問題はないが、どうして彼女が持っていたのかが気になる。
 それ以前に彼女は一体ここで何をしていたのか。
 くるり、と視線をめぐらし、枝と枝の間に何かが引っ掛かっていることに気が付いた。

「双眼鏡……」

 ずいぶんと古いタイプのもので、長く使っているのが分かるほどボロボロの状態だ。丁度彼女がいた場所に、同じ向きで腰掛けて双眼鏡を目に当てる。

「国が、よく見える」

 きっと、彼女が見ていた景色はこれだ。
 双眼鏡の向こう側に広がる景色は、取り留めもないもの。城下町でせわしなく人々が生きている姿。あの中にいたままでは見ることのできない光景。たまにはこうして一歩引き、外から見るのもいいかもしれない。

 自分が生きる町を。
 自分が生まれた城を。
 自分が率いることになるかもしれない国を。

 するり、と双眼鏡を動かして、彼は町の奥に立つ城へと目を向けた。

「おー、よく見えるよく見える。あ、あいつサボってエロ本読んでやがる。兵士長にチクってやろ。……いや、脅して本借りたほうがいいな」

 双眼鏡を手にしばらく楽しんでいたが、彼女が戻ってくる気配はない。ここへ来た頃には真上にあった太陽も、徐々に西に傾きつつある。これ以上待っても無駄だろう。
 そう思い、彼は双眼鏡を手に立ちあがった。さすがに枝の上だと軽く恐怖を覚えるが、それを乗り越えた先にしかない爽快さもある。彼はそういったものが好きだった。手の届く位置のものに興味はない、少し先の何か。背伸びをしなければ届かない位置にあるからこそ、懸命に手を伸ばそうと思う。そうして得たものはすべて彼の宝物だ。
 双眼鏡を持ったまま枝から飛び降り、移動魔法を発動させた。木の根元付近に目印代わりのバンダナを枝にくくりつけておくことも忘れない。これがなければまたここに飛んでこれるかどうか、分からなかったからだ。

 足元から溢れる光に目を閉じ、次にうつり込む景色は見なれた城のバルコニーだった。自室につながっているため、誰かに見つかる恐れもない。部屋の扉には鍵をかけているし、今日やるべきことはすべて終わらせている。数時間城にいなかったところで誰に見つかるわけでも、迷惑をかけるでもない。
 大陸南西に位置する大国サザンビーク。彼の立場はその国の第一王子であった。長子、つまりは第一王位継承者なのである。そのためにこなさなければならない雑事は多い。将来のために、との勉学から、兵士の手本となるようにと兵役もある。他国との付き合いもあるし、国内の貴族との付き合いもある。数年前まではただ勉強さえしていれば良かったが、年を重ねるにつれて社交的な場に連れ出されることも多くなった。
 それはそれで仕方がないことだ、と諦めている。その分何不自由なく暮らしていけるのだ、それ相応の働きをしてしかるべきだろう。だから不満はない。あってもなかったことにする。
 ただ、ときおり無性に個人的な時間が欲しくなるのだ。

「ルーラ覚えといて良かった」

 自室へ戻って着替えながら一人呟く。移動魔法を覚えたことは誰にも伝えていない。無断で城を抜け出す手段をなぜ人に教えなければならないのか。いつでも逃げ出せる、ということが案外心を軽くしてくれるものなのだ。

(明日もまた、行ける、かな? 難しいかな)

 予定を思い返しながらどうにかして空き時間が作れないかと画策する。暇はそのあたりに落ちているものではない、自分で作り出すものだ。



 その信念に基づいて行動した結果、まとまった時間が取れたのは初めて彼女と出会った日から三日後のことだった。
 動きやすい服装に着換えて双眼鏡を手に移動魔法を唱える。目標はここから南にある山の中、大木の根元の自分のバンダナ。
 体が浮き上がり、石畳の床から足が離れた。移動中は眩しくて目も開けていられない。光が治まったのが移動終了の合図。す、と目を開けると、この間と全く同じ光景が広がっていた。

 目の前に、驚いたような彼女の顔。
 彼女の顔が見える、ということは、と考える。そうして自分の足下へ意識をやった。
 地面の感覚は、ない。

「ッ!」

 咄嗟に腕を伸ばし、彼女の腰掛ける枝へしがみ付く。

「……だから、どうして君は、人のものを持ってるかな」

 柔らかそうな金髪を背中に湛えた彼女の手には、ぎゅう、と大事なもののように自分のバンダナが握りしめられていた。
 彼の言葉を聞き、彼女は自分の手の中のものと彼を交互に見た後、顔を赤くして小さく「ごめん、なさい」と謝った。

「ああ、いいよ、今度は落ちなかったし。っていうか、そもそも物を目標にするからこうなるんだよね。この木を目標とすれば良かったんじゃん」

 山の中の木など多くあり過ぎて目標物には向いていない。だからこそ、そこに自分のものを置いてそれを目指していたのだが、ここまで印象に残る場所となったなら次からはこの木を目指して飛んで来ることができるだろう。

「はい、これ。この間忘れて行ったでしょ。また会えて良かった」

 そう言って双眼鏡を差し出すと、彼女はびくり、と目に見えるほど大きく肩を震わせた。怯えているのだろうか、距離を取ろうと体を離すが、彼女の背後には大木の幹がある。これ以上離れようとするなら木から下りるしかないだろう。しかし彼女はこの間のように逃げようとはせずに、恐る恐るこちらを見ながら手を伸ばしてきた。

「あ、あり、がとう」

 双眼鏡を受け取るその手がかすかに震えている。

「おれが怖い?」

 はっきり言えば彼の顔は少々幼い作りをしている。悪く言えば威厳がない。良く言えは人当たりがいい。つまりこのように怯えられることは初めてと言っていい経験で。
 少しだけショックを受けてそう尋ねると、彼女は小さく首を横に振った。

「良かった。ええと、この間も聞いたけど君、人間?」

 同じように否定のジェスチャーが返ってくる。

「ごめん、おれ不勉強だから人間以外のことはよく知らないんだ。君は何者?」

 城の図書室で少し蔵書をあさってみたが、耳の尖った種族のことを見つけることは出来なかった。尋ねると、双眼鏡を握った手をじっと見つめていた彼女がちらり、とこちらへ視線を向けた。真正面から見つめ返すとすぐに視線が反らされる。それを何度か繰り返す彼女を見て、ふと思った。

(これは、怖がってる、ってより…………)

「……もしかして恥ずかしがってる、のかな?」

 思わず声に出た。同時に、もともと赤かった彼女の顔がさらに真っ赤に染まる。どうやら図星だったらしい。しまったと思ったときにはもう遅い。さっと立ち上がった彼女は、そのままこの間と同じように枝から飛び降りてしまう。

「あ、待って! せめて名前!」

 咄嗟に言葉が飛び出る。そのまま無視されてしまうかもしれない、と思ったが、どうやらこの間とは違って彼女の耳に届いたらしい。半ば発動しかけていた魔法が治まり、すとん、と彼女は地面に足を下ろした。
 彼女のつむじを見ながら彼は口を開く。

「おれはエルトリオ。サザンビークのエルトリオだよ」

 答えが返ってくるとは思っていなかった、ただ自分の名を告げておきたいと思っただけだった。

「……竜神族の、ウィニア」

 しばらくして返ってきたその声に、にっこりとエルトリオが笑ったと同時に彼女、ウィニアの姿は光の中に消えていた。




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2008.12.17