竜と人間の恋の歌・3〈Side-W〉




 驚いた、驚いた驚いた。まさか人間と会話ができるなんて。
 いつかそうあればいいと夢見ていたが、半分叶わないだろうと諦めてもいた。それがまさか話しかけてもらえたうえに、名前まで。

「遠眼鏡、返して、くれた」

 無くしてしまったと気づいたのは里に戻ってからだった。おそらく置き忘れてきたのだろうとは思ったが、今戻ってもあの人間がいるかもしれない。そう思うとなかなか行く決心がつかなかった。
 二日経ち、三日過ぎた頃になってようやく心を決めた。さすがにもういないだろう、という予測は当たっており、そこに人の気配はなかったが遠眼鏡もなかった。代わりに根元付近の枝に括りつけられたバンダナが風にそよいでいる。
 どこかほかの場所に置き忘れたのだろうか、とも思ったが遠眼鏡をここ以外に持ち込んだことはない。それならば木の上から落ち、そのあたりに転がっているのだろう、と散々探し回った。木の枝で小さな傷をいくつも作りながらの捜索は結局何の成果も得られず、途方に暮れていつものように町が見渡せる枝の上に座り込む。風に飛ばされる重さでもないもので、ここまで探してないとなれば辿りつく結論は一つ。
 あの人間が持っていってしまったのだ。
 遠眼鏡というものが人間にとって珍しいものなのかどうかさえウィニアは知らない。竜神族の中では日常的にある道具ではあったが、彼女が持つものは母から譲りうけたもの。いつまでも使えるようにと大事に扱ってきたものだ。
 あのまま木の上に置いておけば、逆に夜露で駄目になっていたかもしれない。

「……いい、人間」

 おそらく、彼はもともとウィニアに返すつもりでそれを持っていてくれたのだ。一番はじめにあの場所へ飛んできた理由は分からなかったが、それでも今日移動してきたのはウィニアに会うため。

「サザンビーク、の、エルトリオ」

 告げられた名を呟くだけで頬が緩む。もう一度会いたい、と思うのは過ぎた願いだろう。会えたところでこの性格だ、まともに会話が成り立つとは思えない。


 それでもこうして同じ場所へ飛んでしまうのは、やはりどこか期待しているから、だと思う。
 魔法の匂い。移動魔法、この間と同じ、五キロ離れた場所から、目的地はここ。

「今日はいるんだ。こんにちは、ウィニアさん」

 木の根元に現れた男は、枝の上に腰かけるウィニアを見上げてにっこりと笑った。もう一度会えたらいいと願ってはいたが心の準備などできているわけもなく、突然のことに驚いて思わず逃げ出そうとしてしまう。移動魔法を発動させかけたウィニアへ、「待って! 逃げないで」とエルトリオは慌てたように叫んだ。

「おれ、ここから動かないから。そこまでは行かない。だからね? ちょっとくらいお話、しよう?」

 その言葉に集めた魔力が霧散してしまう。怯えて逃げ出そうとしてしまう自分と話をしたところで、面白くもなんともないだろうに、どうしてそんなことを言ってくるのかがウィニアにはよく分からなかった。

「ほんと、ちょこっとの時間でいいんだ、ね? お願い」

 両手を合わせて首を傾げてそう言ってくる姿が、まるで幼い子供のようだ。
 ルーラを発動させるタイミングを逸し、ウィニアは仕方なく再びその枝に腰を下ろした。そんな態度を見て、エルトリオはほっとしたように笑みを浮かべる。

「良かった、おれ、あんまり自由な時間がないからさ、せっかく会えたのにお話できないと寂しいよ」

 そう言って彼は木の幹に背を預けるようにしてその場に座った。縋るものがあったほうが良かっただけなのか、それとも視線を向けないというウィニアへの配慮なのか。

「もう一回自己紹介しておくね。おれはエルトリオ。そこから見えるでしょう? サザンビークの第一王子だよ」

 サザンビーク、というのがいつもここから見ていた国の名前らしい。ずっと知りたいと思っていたことをあっさりと告げられ、彼の言葉の意味に気づくのが遅れた。

「……王子?」

 聞き捨てならない単語を思わず鸚鵡返しに呟けば、「そうだよ」と声が返ってくる。

「一応王子様なの、おれ。そう見えない?」
「見えない」
「あはは、即答された! よく言われるけど、即答されたのは初めてだ」

 視線を合わせていないというのが功を奏しているのだろう。この状態ならばなんとか会話ができるようだ。尋ねられたので思ったまま答えると、何故か爆笑された。少し考えて、失礼な回答だったのではないかと思い至ったが、楽しそうに笑っているので気分を害したというわけでもないのだろう。
 笑っている理由は分からないが、それでも怒っているよりは楽しそうなほうがいい、と自分を納得させていると、ようやく笑いが治まったらしいエルトリオが「ウィニアさんは竜神族だって言っていたね」と声がした。こくりと頷いてみるが、彼にはこちらが見えていない。少し考えて、結局「うん、そう」と短く答えた。

「ごめんね、調べてみたんだけど詳しく分からなくて。竜神族って、どういう人たちなのかな」

 人間がウィニアたち竜神族のことを知らないのも仕方ないことだろう。そもそもこちら側にはほとんどと言っていいほど干渉しないのが普通なのだから。

「私たちは、人と、竜の、二つの姿を、持つだけ」

 人間と違うのはただそれだけの部分だろう。耳が尖っているだとか、身体能力だとか寿命だとか、細かに上げていけば他にもいくつかあるが、そのどれも大して意味はない。耳の形は人間だって一人一人異なるし、身体能力も鍛え方によってまた差がでる。人よりも長く生きることは事実だが、不老不死ではなく竜神族だって老いて死ぬのだから人と変わりない。

「そっか。竜、っていうのはドラゴン? 絶滅したっていう説もあるらしいけれど、ウィニアさんも竜になれる?」
「なれる」

 竜神族ならば皆、二つの姿を持つ。二本の足で立ち、誰に教わるでもなく呼吸ができるのと同じくらい、自然に姿を変えることができるのだ。

「一度見てみたいな。ウィニアさんは綺麗な人だから、竜の姿になってもきっと綺麗だろうね」

 さらり、と言われた言葉に顔が赤くなる。いつもなら赤くなった自分を恥じて更に顔を赤くし、最終的にはこの場から逃げ去ってしまうだろう。しかし今はその姿を見られていない、という安心感からか、移動魔法を唱える気にはならなかった。

「竜神族の人って、皆ウィニアさんみたいに恥ずかしがり屋なの?」

 尋ねられて慌てて首を振る。髪の毛が揺れる音でも耳に届いたのか、こちらを見ていないはずの彼は「今、首を振ってるね」とくすくすと笑った。

「じゃあウィニアさんは同じ竜神族のひと相手にも、恥ずかしがり屋なの?」

 首を縦に振った後、「私、おかしい、から」と返す。はっきり言ってしまえばまともに会話が成り立つのは家族と数人の友人くらいで、同じ種族といえど初めて会うものの前では真っ赤になり何も言えなくなってしまう。彼は恥ずかしがり屋だ、とそう言うが、単に怖いだけだろう。相手にどう思われているのか、相手が何を言うつもりなのか。
 変な態度を取っていることは承知しているが、それが怖くていつも逃げてしまう。
 ウィニアの言葉に、眼下でエルトリオが首を横に振ったのが見えた。

「おかしくなんてないよ。そうやって恥ずかしがっているの、可愛いよ?」

 人間とは愚かな生き物だ、と物心ついたころからずっと教わってきていた。
 力もないくせに支配欲ばかり強く、その上ひどく臆病だ、と。自分とは違う存在、自分より強い力をもった存在が許せないのだ、と。竜の姿にさえなれない人間という種族には関わる価値もない、そう教えられてきた。

 けれどそれは違う。
 きっと違う。
 その関わりに意味や価値を生み出すのは種族ではなく、当人たちの心の問題。
 だって今現に、その価値がないと言われていたはずの人間である彼からの言葉に、ウィニアは涙がこぼれてしまいそうなほどに、喜びを感じているのだから。




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2008.12.17