竜と人間の恋の歌・4〈Side-E〉




 綺麗な顔をした恥ずかしがり屋の彼女は、まるで野生の猫のようだった。少しずつ少しずつ近づいて、こちらに危険がないことを悟らせ、ゆっくりと手を伸ばさなければ逃げていってしまう。

「猫っていうのは失礼か。なんせ竜だもんな」

 ここのところ、彼女のことばかり考えてしまっている。そんな自分に気づいて呆れながらも、どこか楽しんでしまっているのだから手に負えない。
 彼女とはとりたてて約束をすることはない。したところでエルトリオのほうが守れる自信がなかったからだ。それでも何とかして彼女と会う機会を増やしたい、とない知恵を絞らせる。

「今日はこっち、向いててもいい?」

 何度か木の根元で背を向けたまま会話をし、頃合いを見計らって向かい合って座る許可を求める。ちらりと上を見上げれば、少しだけ迷った後、彼女は小さく頷いてくれた。
 それでも見上げて視線を合わせるとまた怯えさせてしまうだろう、とエルトリオは極力上を見ないように努めなければならず、ただ会話をするだけなのにここまで労力を要する相手も珍しいと思わず笑いが零れる。

「ウィニアさんはよくここに来るの?」

 今は時間を作ってはここを訪れるようになったエルトリオだが、それでも十日に一度来れるか来れないかだ。それ相応の地位にいるため仕方がないのだが、彼女のほうはどうなのだろう、と尋ねてみると、「いつも、来る」と返事があった。

「いつもってどのくらい? 五日に一度とか?」

 更に重ねて尋ねると、「三日に一度、くらいかな」と返ってくる。

「里は、退屈」

 彼女の言う里とは竜神族たちが住んでいるところらしい。どうやら自分たち人間とは違う次元にあるらしく、彼女は偶然に見つけたという抜け穴からこちらへ隠れて遊びに来ているのだとか。

「おれがいないときとかは何をしてるの?」
「町を見てる」

 町、という言葉に、エルトリオは背後を振り返る。今は木々に隠れて見えないが、彼女の視線の先には常に我が祖国、サザンビークがあるのだ。

「……飽きない?」
「ない」

 自分とは違う存在が、そこで生活をしているという事実だけで彼女は十分楽しめるのだと、そう言った。

「ね、ウィニアさん、一つ提案。提案ていうか、お願いっていうか」

 そんな彼女の楽しみを奪うのは気が引けるが、それでも出来るだけ会いたいと思うのだから仕方ない。エルトリオは、次に会えたら渡そうと思っていたものを懐から取り出した。

「見える? これね、手鏡なの。もしよかったら、でいいんだけどさ。貰ってくれないかな?」
「……私が?」

 突然のプレゼントに戸惑った声が落ちてくる。

「そう。あのね、ウィニアさんがここに来たときね、どうしても一人でいたいってとき以外、おれがいても邪魔にならないときにこれ、木の枝にかけておいて欲しいんだ。そうすれば城にいてもウィニアさんがいるってことが分かるから」

 手鏡が太陽の光を反射する。小さな光ではあるが、方角さえ知っていれば見逃すことはない。一度自分で試してみたからそれは確かだ。

「光が見えても来れるかどうか分からないけど、時間を作る努力だけでもしたいんだ」

 ダメかな、と上を見上げて尋ねる。少しの沈黙のあと、「いいよ」と声がした。

「ほんと? ありがとう!」

 余りの嬉しさに思わず顔を上げてしまう。久しぶりに正面から見た彼女は、相変わらず綺麗で可愛らしかった。
 見る間に顔を赤くしてしまったウィニアが気の毒で、「ごめん」と慌てて下を向く。それでも鏡を貰ってくれるという嬉しさに頬が緩むのが抑えられない。

「ええと、じゃあこれ、ここ、置いておくね。面倒だったらそのまま置いといてもいいから」

 そろそろ帰らなければならない時間だということもあり、エルトリオは立ち上がり地面の上に手鏡を置こうとする。すると「待って」と上から制止の声が掛った。

「置いちゃだめ」

 ぽつぽつと落ちてくる声がどこか近くなったような気がして顔を上げると、いつの間にか彼女が少し下の枝まで下りてきていた。
 視線が合うと相変わらず耳まで顔を赤くする。以前ならすぐにでも移動魔法で逃げだしていただろう。ぎゅう、と両手を強く握ってその衝動をやりすごしたのか、彼女はもう一つ下の枝まで下りてきた。

「贈り物は、きちんと、受け取らないとだめ」

 小さく首を振った彼女は、今は手を伸ばせば届く位置にいる。まだ顔を合わせることができるほど慣れてもいないだろうに、人からの贈り物を地面には置けないとわざわざ下りて来てくれた。これが嬉しくない人間などいないだろう。

「じゃあ、はい、これ」

 手を伸ばして手鏡を渡すと、彼女は俯いたまま「ありがとう」と呟いた。

「こっちこそ貰ってくれてありがとう」



 この日からエルトリオが行くと、彼女は一番下の枝まで下りて来てくれるようになり、それを幾度か繰り返したのち、ようやく彼女と並んで同じ枝に座ることができるようになった。
 嬉しいとは思うが彼女には言わない、きっと気にするだろうから。だからこの嬉しさは自分一人のものだ。誰にも渡さない。

「んー、これはまずいな」

 自室の窓から小さな光を確認したのが四半刻ほど前のこと。支度をしながらエルトリオは小さく呟いた。もともと大した用事も詰まっていなかったため、どうしてもさぼれないものだけをさっさと済ませて時間を空ける。最近は着替える時間さえ惜しく、マントを外して汚れてもいい上着を羽織り、バンダナを巻くだけにしていた。
 まずい、とは思うが自分の心に嘘は吐けない。もともと王族などという存在は他者にはこれでもかというほど嘘をつかなければならない存在だ。せめて自分にだけは正直でいたい、と思ってしまう。もっとも弟には「兄上は自分に正直すぎます」と逆に怒られることも多いのだが。

「でもまあ、会いたいんだからしょーがない」

 窓からバルコニーへ出て、そのままルーラを唱える。

「こんにちは、ウィニアさん」

 見上げて挨拶をすると「こんにちは」と返ってくる。下りてこようとする彼女を止めて、今日はエルトリオが彼女のいる場所まで登った。

「今日もいい天気だね」

 彼女の隣に腰をおろして広がる青空へ目を向ける。「そうね」と返ってきたあと、珍しく彼女のほうから口を開いた。

「ねぇ、最近はよくここに、来るけど、大丈夫なの?」
「大丈夫って何が?」
「あなた、王子なんでしょう?」

 確かに初めのころに比べるとエルトリオがここに来る頻度は格段と上がっている。無理をしてここにきているのではないか、と心配しているのだろう。確かに多少無理をしている部分もあるが、エルトリオにとっては許容できる範囲内だ。

「大丈夫。王子様のお仕事はちゃんとやってるよ」

 その証拠にここに来てない日もあるでしょ? と言うと、納得したのか彼女は「なら、いいけど」と呟いた。彼女が来ていることが分かっているにも関わらず、どうしても時間が作れないときだってもちろんある。自由に動けない自分を歯がゆく思うが、どこにあるとも分からない竜神の里にいるのではなく、すぐそこに、自分の知っている場所に彼女がいるのだという事実だけで案外安心したりするものだ。
 やはり鏡を渡して正解だった、と満足しながら、「ね、そういえばさ」と口を開く。

「ウィニアさん、なんでおれの名前、呼んでくれないの?」

 こうして会話を交わすようになってずいぶんと経つが、まだ一度も呼びかけてもらったことがない。大体が「ねぇ」や「あなた」なのだ。会話ができるだけで良しとするべきなのだろうが、一抹の寂しさを覚えてしまうのも仕方がない。

「無理にとはいわないけどさ。まだ恥ずかしい?」

 こうして隣に座ることはできるようになったが、正面で向き合うのはまだ難しいだろう。名を呼ぶことも彼女にとってはハードルが高いのかもしれない。そう思って尋ねると、隣で彼女は小さく首を横に振った。

「だって、長いから」
「……は?」

 思ってもみなかった返答に間の抜けた声が零れる。

「あなたの名前。エルトリオ、って長い」
「え? 長さの問題なの? ただそれだけでおれ、呼んでもらえてなかったの?」

 驚いて彼女のほうを見ると、きょとんとした顔で「そう、だけど……」と答えられた。あまりの意外さに思わず力が抜ける。がっくりとうなだれてしまった自分に、ウィニアは「ご、ごめんなさい」と慌てて謝ってきた。

「い、いや、いいよ。こっちこそ名前くらいでここまで落ち込んでごめんね。ていうか、長いなら省略していいよ。愛称ってそのためにあるんだし。ウィニアさんの呼びたいように呼んで?」

 そう言うと、「そう、ね」と彼女は空を見上げて考えた。

「じゃあ、『エ』」
「一文字!? それ、おれって分かんなくね?」
「……それじゃあ『エルトリ』」
「そこまで言うなら『オ』も言ってよ!」
「あなた、我儘」

 折角提案してくれたものを却下するのは気が引けたが、思わず突っ込まずにはいられない。そのどこかずれた思考回路に驚きながらも、ぷくぅ、と頬を膨らませる彼女もまた可愛い、とそう思う。

「ねえ『エル』とかじゃだめなの?」

 実際に、城下町に暮らす小さな子供たちからはそう呼ばれることもある。彼らにとってもこの名前は言いづらいらしい。
 しかしどうやら自分が考えたものを否定されたことで拗ねてしまったらしい彼女は、唇を尖らせたままふるふると首を横に振った。

「……分かった。分かりました。もう『エ』でも『エルトリ』でも何でもいいよ。ウィニアさんがおれを呼んでくれるなら」
 ぶっちゃけ『ポチ』でも『タマ』でも『スザンヌ』でもいい。

 半分くらい本気でそう言うと、突然彼女の肩が小さく震えだした。

「ス、スザ、ンヌ……ッ」

 どうやら『スザンヌ』がツボだったらしい。ひとしきり笑ったあと、浮かんだ涙を拭いながら至極真面目な顔で、「あなたの顔で『スザンヌ』はないと思う」と言われてしまった。

「……いや、分かってますけどね。うん。そう正面から言われるとなんか、傷つくと言いますか」
「じゃあ『スザンヌ』って顔だよね、って言われたい?」
「それも嫌だ」

 きっぱりと否定すると、彼女は「やっぱり我儘」と笑った。
 この場合は我儘とかそういう問題ではないだろう、そう思い言葉を返そうとしたところで、すくりと彼女が立ちあがる。

「そろそろ帰らなきゃ」

 気づけは青かった空にも赤が広がり始めている。多少遅くなったところでエルトリオとしては構わないのだが、女性を夜遅くまで引き留めるわけにもいかないだろう。

「そっか。残念。じゃあおれも帰ろう」

 ぐん、と背伸びをし、彼女の隣に立ちあがる。視界に広がる夕焼け空と、そびえたつ城。今までなら綺麗な景色だ、とそう思っていただろう。しかし何故だか今は、その城がどこか色褪せて見えた。

「じゃあ、また今度ね、ウィニアさん」

 帰るタイミングが二人同じときには、必ずと言っていいほどエルトリオが後に残る。いつもはウィニアを置いて帰るばかりなので、こういうときくらいは見送りたいとそう思うのだ。
 笑って手を振るこちらへ視線を向けた彼女は、にこりと笑ってとん、と枝を蹴った。

「またね、エルト」


 どうやら、愛称は『エルト』に決まったらしい。




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2008.12.17