竜と人間の恋の歌・8〈Side-E〉




 彼女が初めてサザンビークを訪れてからしばらく、エルトリオはウィニアと会うことができなかった。タイミングの問題もあったのだろう。エルトリオはエルトリオで公務が立て続けに予定されており、彼女のほうも体調が思わしくなく臥せっていたという。

「もう大丈夫なの?」

 ようやく会えたその日、やはり少し顔色の悪い彼女へそう尋ねると、「大丈夫」と返ってくる。

「吐き気が酷かったんだけど、今は平気」

 本当ならば帰って休むように、と言いたいところなのだが、せっかく会えたのにまた離れてしまうのは嫌だ。大人になり切れない自分に苦笑しながらも、エルトリオは今日こそ渡そう、と思っていたものを取りだした。

「ウィニアさん、左手、出して?」

 そう言うと、疑うことを知らない彼女は素直に手を差し出してくる。ほっそりとした腕を取り、その綺麗な指にそっと指輪をはめ込んだ。もちろん薬指だ。

「アルゴンハートっていう宝石なんだけどね。アルゴリザードってでっかいトカゲの体内で作られるんだって。うちの王家の仕来たりで、アルゴンハートを一人で取って来ないと一人前とは認められないんだけど、その宝石を一番大切な人にあげるっていうのも伝統みたいなものでさ」

 アルゴンハートの大きさは、それを作り出したアルゴリザードの大きさに比例する。つまりはより大きなアルゴンハートを持って帰って来れたものほど、王者の素質があると称えられるわけだ。そうして苦労して取って返ってきた宝石を、惜しげもなく割ってリングにして渡すのだから、もちろん心の底から大切に思っている相手に限る。

「ウィニアさん、あのね、人間の世界では薬指の指輪を贈ることがプロポーズなんだ。だからおれはこれをウィニアさんに貰って欲しい」

 これはもうずっと考えていたことだった。
 出会って話をして親しくなり、恋人と呼ばれる関係になって。もっとお互いをよく知ったほうがいいだとか、そういう者もいるかもしれないが、エルトリオは彼女だと、そう思ったのだ。
 この指輪は彼女に渡すべきものだ、と。


「ずっと、おれと一緒に生きて?」


 生涯を共に過ごそうと思える相手など、そう巡り合えるものでもない。
 種族が違えば尚更で、この出会いは奇跡に近いのだ。
 それでも出会ってしまった。
 出会ったことでがたん、と何かが大きく動いた。その流れにはもう逆らえない。
 王族であるとか竜神族であるとか、その程度のことで止められる想いではないのだ。
 小さく息を呑んだウィニアは、宝石のあしらわれた指輪を大事そうに握りしめたあと、しっかりと頷いた。


「ありがとう、ウィニアさん。これからもよろしくね」
「私こそ。ありがとう、エルト。これからもよろしく」


 どちらからともなく腕を伸ばし、ぎゅうと抱きしめあう。
 これからはこの温もりが常に側にあるのだ。
 そうなるまでまだ時間はかかるだろうが、それでも共に生きると今ここで誓った。
 互いの気持ちが固まったのならば、あとはそこに向かって進むのみ。彼女とならばどこにでも進んでいけるだろう。
 求めていた半身をようやく手に入れたその幸福感と、これからのことを思っての多少の緊張感を含んだ空気は、腕の中の彼女が身じろいだことで不意に壊れる。

「魔法の、匂い」

 くん、と鼻を動かしてはいるが、本当に匂いがするわけではないらしい。癖になっているのだ、と以前彼女が言っていた。

「攻撃魔法?」
「ううん、ルーラ、この方向、祭壇があるほう……ここに、来る」

 まさか、と目を見張る彼女はおそらくその「祭壇」に心あたりがあるのだろう。上空を見上げる彼女につられてそちらを見ると、抜けるような青空に光が集まっているのが見えた。ピリ、と肌が震える。この感覚は間違いなく敵意。

「氷の魔法が」
「ウィニアさん、下がって」

 続いて放たれる攻撃魔法に彼女を庇うように抱き込んだ。こんなことならば帯刀してくれば良かったと後悔する。魔法も使えなくはないが、出来れば剣があったほうがいい。
 背後で響く落下音と揺れる地面、ひやり、と冷えた空気が頬を撫でた。

「大丈夫? ウィニア、さん」

 衝撃が治まったのを感じて腕の中の彼女へ声をかけるが、不意にエルトリオは違和感を覚える。エルトリオは身動きができないほど彼女を強く抱きしめたわけではない。軽く、覆いかぶさるような体勢を取っただけだ。だから彼女自身動くことができたはず。
 こういう場合、本来人はまず頭を庇う。きっとそれは人間であろうと竜神族であろうと同じだろう。一番の急所である頭を庇うのが普通だ。しかし、彼女の両腕は。

「ウィニアさん、もしかして」

 その疑問を彼女へぶつける前に、「ウィニアから離れろ」と冷たい声が耳に届いた。
 振り返ると、白みがかった金髪を肩の少し下あたりまで伸ばした、細身の男の姿。おそらく竜神族であろう。彼は自分が放った氷の塊の上へと降りてきた。

「ヴァン……」

 彼女の呟きを耳に留め、やっぱりな、とため息が出そうになったのをぐっとこらえる。

「聞こえなかったのか。ウィニアから離れろ、汚らわしい人間が」

 その視線には侮蔑以外の感情は一切含まれていない。そもそもこちらを生物として認識しているかさえ疑わしいかのような、そんな冷めた目だった。

 予想以上だ、とエルトリオは思う。
 ある程度は想像していた。この世界に彼女たち竜神族の情報が全くないこと、現れる様子もないこと、竜神族は人間のことを知っているようだったが、ウィニアがそのことにほとんど触れようとしないこと。それらから導き出される答えはいくつかに絞られる。そうしてこういう場合は大体最低なパターンが正解であるのだ。

 竜神族は人間を忌み嫌っている。
 嫌う、というレベルではないのかもしれない。そもそも同じ立ち位置にいる存在だとすら思っていない。魔物や動物と同じものだと思っている可能性も、彼の目を見る限りではありえないことではなかった。

「ヴァン、どうして、ここが」

 尋ねながらも、彼女はエルトリオの側から動こうとはしない。きゅう、と服の裾を掴んでくる仕草が可愛くてその手をそっと外すと、自分の手で握り返した。エルトリオを見て微笑んだ彼女も、同じように握り返してくる。そのことにほぅ、と安堵の息が零れた。
 まだ、大丈夫。まだ彼女はここに、自分の側にいてくれる。

「この間、お前が帰ってくるところを見ていたんだ。どこに続いている穴かと思えば、まさか人間の世界とは」

 信じられない、と吐き捨てるように男は言った。

「ウィニア、お前は一体何を考えているんだ? 人間の世界に来るだけならまだいい、それくらいなら変わり者ですむ。だが人間と深い仲になるなど、竜神王様に知れたらどうなるか……!」
「里を出る覚悟は、もう決めた」

 激高した男の口調とは裏腹に、ウィニアは静かに、しかしだからこそ逆に誰にもとめられぬ決意を秘めた響きを持ってそう告げる。

「私はエルトと生きる」

 彼女の気迫に押されたのか、一瞬言葉を失ったヴァンは、それでも尚言い募る。

「竜神族と人間とが、共に生きれるはずがないだろう」
「覚悟の、上」
「お前はそうかも知れんが、そっちの人間はどうだ。どうせその程度の知識すらないのだろう? 我ら竜神族と人間とでは流れる時が違う。老いる時間が違う。そんな下等な生物が竜神族と共に生きるだと? 笑わせてくれる」

 確かに、エルトリオを含めた人間には彼ら竜神族の知識はほとんどない。エルトリオだってウィニアからそれほど聞いているわけではない。しかし、そもそも種族が違うのだ。幸いにも言葉や魔法、食事などは共通していたが、すべてが同じであるわけがない。それくらい馬鹿だって考え至ること。

「そっちこそ、笑わせてくれるね」

 常に最多の状況を想像し、そのうちで最悪のパターンを想定して行動する。
 それが出来なければ一国の王族などやっていられない。

「このおれが、その程度のことを考えてないとでも思ってんの?」

 ふん、と鼻で笑って男を睨みつけてやる。

「惚れた女と生きると決めた。そのためなら命以外の全てを投げ打つ覚悟があるのは当然だろう?」

 その覚悟すらなしに愛を囁くなど、子供のままごとのようなものだ。
 きっぱりとそう言いきると、男の表情がますます険しくなっていく。さすが、竜に姿を変えられる種族だけある、その怒気もまたすさまじい。

「……ウィニアさんも怒ったらあんなになる?」

 こっそり尋ねてみると、小さく首を傾げて「私はもっと、静かに、怒る」と答えられた。そちらのほうがより怖そうだ。

「そうか、ならば、仕方あるまい」

 二人が下らぬ会話をしている間にも、ヴァンの怒気はますます膨れ上がって行く。どうやら彼ら竜神族は体の一部だけでも竜へと変化できるらしい。彼の背中にはドラゴンのものと思われる翼が生えていた。軽く宙に浮いた状態で真正面から魔法を放たれたら防ぎきれないだろう。
 せめて彼女だけでもなんとか守りきることができれば、と思ったところで、男の視線が遠くへ向いていることに気が付いた。エルトリオたちの背後、その方角は。

「……まさか」
「あれがお前の国か」
「ッ!」

 静かに紡がれた言葉に、エルトリオよりもウィニアのほうが息を呑んだ。慌てて飛び出そうとする彼女の腕を引いて留める。

「最後の忠告だ。ウィニア、俺と共に戻れ。今ならまだ他の者には気づかれない」

 これを拒否すれば彼は迷わずサザンビークへ向かって飛び立つだろう。彼が竜へと姿を変えてしまえばあの国などひとたまりもない。純粋なるドラゴンを最強の種族とする考えさえこの世界にはあるのだ。
 今から国へ戻って兵を集めて、どうにかなる規模の問題だろうか。せめて国民だけでも避難させることができれば無駄な死者を出さずに済むだろう。国の者たちには迷惑をかけることになるが、もし仮に祖国を滅ぼされたとしてもこの手は離せない。人々の怨嗟の念を背負ってでも、守りたいものがある。

「ウィニアさん、一度、城に」

 飛ぼう、と提案しようとしたところで、彼女は「ヴァン」と同族へ呼びかけた。

「あなたがあの国を攻撃すると、言うのなら。もし、あなたの攻撃であの国の人々の、誰か一人でも亡くなったとしたら。私は、ここで命を絶つ」
「ウィニアさんっ!?」

 エルトリオの手を握った反対側の腕が、ゆっくりとその姿を変えていく。鋭く伸びた爪は竜の姿のときのものだろう。
 己の喉元へそれを突き付けて、ウィニアは静かに言う。

「あの国の人々は、エルトの命。あの国を攻撃することは、エルトを攻撃することと同じ。エルトが死ねば、私も死ぬ」

 彼女が脅しでこのようなことをする性格ではないことを、エルトリオもそしてヴァンもよく知っていた。一度決めたら必ず実行する。

「ウィニアさん、それ、おれ、嬉しくない」

 その気持ちは死ぬほど嬉しい。けれど、彼女において逝かれたらどうしていいのか分からない。
 そんな思いを込めて繋いだ手をきゅ、と握る。
 すると彼女は、こちらを見て「分かってる」と笑みを浮かべた。


「だから、私が死んだら、エルトも、死んで」


 ぽん、と当然のように紡がれた言葉。
 軽く、まるで散歩にでも誘うかのような。
 思わず吹きだしてしまうのを止められない。
 なんて素敵な口説き文句だろう!
 世界中、どこを探したってここまでくらりとくる言葉を囁いてくれる女性はいない。

「ウィニアさん、おれもう、ウィニアさんにメロメロだよ」

 くつくつと笑いながら、左手に魔力を集める。今自分が集められるだけの、最大の魔力。回復魔法や補助魔法はさっぱりだったが、攻撃魔法、それも炎の魔法だけならかなりの攻撃力があると自負している。

 共に生きることが叶わないとすれば、せめて「共に」の部分だけでも叶えようではないか。
 二人の覚悟が本物であることを悟ったのだろう。ヴァンが「馬鹿どもが」と忌々しげに吐き捨てた。

「そんなに死にたければ俺の手で殺してやる」

 攻撃目標がサザンビークからこちらに移っただけでも儲けものだ。彼の手にかかって死に至るのは心底悔しかったが、彼ならばまだウィニアだけでも助けてくれる可能性がある。その可能性に賭けてみるか、と呪文を唱えようとしたところで、もう一人、空間を裂いた闖入者が現われた。




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2008.12.17